さて、伊勢松阪の商人町を巡ってもう一つ、

三井家発祥地松阪商人の館 となっている小津邸からは
一本筋違いの通りに面している旧長谷川邸を訪ねたのでありました。


旧長谷川邸@松阪

先に松阪商人の館で見た見立番付「大日本持〇長者鑑」で西方、二段目の真ん中あたりに
長谷川次郎兵衛とあったのが、ここ長谷川家の当主なのですなあ。
商売の方は解説から引用しますと、このようであったようです。

延宝三年(1675年)、長谷川家創業の祖とされる三代政幸(宗印)が「丹波屋次郎兵衛」を名乗り、大伝馬町一丁目で木綿仲買商として独立しました。その後、松阪では、伊勢・尾張・三河産の木綿の仕入れや資産管理を行い、江戸店では木綿のほか米・雑穀・干鰯・煙草等も販売していました。

お江戸日本橋の大伝馬町には小津清左衛門も店を構えておりましたですが、
広重描くところの「東都大伝馬街繁栄之図」のいちばん左端に見える「三つ引両」の紋、
これが長谷川家の店であったということでありますよ。
この頃には丹波屋というよりも「はせ川」を看板に掲げていたのですなあ。




ちなみに伊勢松阪の商人は大伝馬町ばかりでなくして、

日本橋周辺の本町、本石町、駿河町、堀留町ほか、たくさんあったのだとか。

まあ、伊勢から出張っているので伊勢屋の看板を出す例が多かったのでしょう、
当時の江戸の俗諺には「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるほど

(汚い例えを引いてすいません)、そこここで伊勢屋の屋号が見られたということですな。

(ま、出身者でなくて看板だけという人もいたようですが)


という余談はともかくとして、旧長谷川邸の屋敷の話に戻りますとここもまた大きな敷地で。
建物が大きいのはいずこも同じですけれど、住まいの裏側に広い庭園を持っているというのが
ひとつ特徴的でありますね。


旧長谷川邸の全体像模型

もともと住まいの裏側は背割下水の溝を挟んで紀州藩の勢州奉行所があったのそうです。
それが明治になって奉行所が無くなることになったものですから、その土地を買い足したと。
それをそのままの広さで庭園にしてしまうのですから豪勢なものですなあ。
回遊式庭園に造り上げるには相当な費用がかかったことでしょうし。


このとき、離れや茶室、四阿などが作られますけれど、
庭園とこうした建物を一体的に文化サロンとして使ったのだそうでありますよ。
伊勢河崎の商人たちも詩歌や国学に勤しんでいたわけですが、

その発展形のような機能がこの庭にあったのですなあ。


旧長谷川邸の回遊式庭園

つうことで松阪の長谷川家はこれまた豪商であったわけなのですが、

ちとここで触れておきたいことがありまして。


それといいますのも、紀州藩の廻米とともに長谷川が江戸店に送り出す荷を

たんと積み込んだだ船が伊勢若松から出帆、天候に恵まれず船は遭難し、

北へ北へと流されることになってしまい、たどり着いたのはアムチトカ島で…。


すぐに思い当たる方もおいでとは思いますが、
船の名前は神昌丸、船頭は!そう、大黒屋光太夫 なのでありますよ。
積荷には長谷川の商品もあったわけでありまして、その船が遭難したということから
先に伊勢若松で見た供養塔は長谷川家で建てたものであったのですなあ。

なんとも旅のまとまりがいいような気がしたものでありますよ。