先に出かけたBunkamuraではザ・ミュージアム とは別のアートスペースも覗いたのでして、
Box Galleryでは「西洋人の描いた日本地図~マルコ・ポーロからシーボルトへ~」という
なかなかに興味深い展示を見ることができたのでありました(3/31で終了してますが)。
西洋人が日本に興味を持った最初は、やはりマルコ・ポーロの「東方見聞録」でありましょう。
そういう意味でタイトルに「マルコ・ポーロから」とあるわけですが、
もちろんマルコ・ポーロが日本地図を描いたのではありませんですね。
マルコ・ポーロの記述で関心を呼び覚まされた西洋人は日本の姿を想像して描くことから
始まったようです。
そんな想像で描かれたのがボルドーネの「日本図」。
これが描かれた1528年当時はすでに大航海時代が始まっていたわけですが、
日本はかほどに似ても似つかぬ姿と考えられていたのでしょうかね。
そんな状況下に天正遣欧使節がバチカンを訪ね、
ローマ法王を始め多くの西洋人に「噂の日本は本当にあったのだあね…」と知らしめたかも。
宣教師の派遣などを通じて日本の事情はだんだんと西洋にも流布するわけですが、
地図に関してもまた然りでありましょうか。
戦国史によくその名の出てくる巡察使ヴァリニャーノの著作に
差し挟まれるはずであった日本地図(実際には著作は未完であったと)を作るため、
ポルトガルの地図製作者まで送り込まれるのですから。
その時の地図製作者イグナシオ・モレイラは
鹿児島から京都に至る西日本を実測しながら上洛、秀吉の謁見を受けた後には
諸大名から東日本の情報を集めて、「日本図」を作り上げたとか。
この地図は印刷者と制作者との名からブリンクス/モレイラ「日本図」と呼ばれますが、
先に見たボルドーネの地図からは格段に実勢に近付いているのではないかと。
それでも東日本が怪しいのは聞き書きだからでありましょう。
かように西洋人は日本の実際の姿をつかんでいったわけですが、
年月を経ればより正確な地図が作られる…というわけでもないようで。
当時としては精巧なモレイラの「日本図」は
その後に描かれる日本の姿のベースとなっていきましたけれど、
そこに後の情報をもとにむしろ誤ったことが書き加えられたりしたこともあったようです。
モレイラの地図では蝦夷地に関して、
実態は分からないながらも本州の北の先にある島として部分的に描いてありますが、
これが後にアイヌ の人たちからの聞き取りも得たという地図では
大きく描かれた蝦夷地が樺太やカムチャツカあたりない交ぜになって
大陸の一部になってしまっているという。
地図の正確さという点では明らかに後退ですけれど、
もしかするとアイヌの人たちの行動範囲としては海の存在をものともせずに
蝦夷地、樺太、カムチャツカ、そして大陸とその区別なく動いていたのかも。
そうした受け止め方をしていた人たちから聞いた話をそのまま地図に反映させると
あたかも蝦夷地は大陸の一部であるかのような形になってしまったのかもですね。
もっとも樺太自体、それが島だったと分かるのは間宮林蔵の探検後なのですけれど。
そんな経緯を辿った地図作りですが、画期的なものは西洋人の手によるのでなくして
ご存知のとおり伊能忠敬 の登場によるわけですな。
一方で展覧会タイトルからすると「シーボルトも日本地図を作ったのか…」と思うところながら、
これもご存知のように伊能図を持ち出そうとした「シーボルト事件」があったりしたわけで、
本人が地図を作ったわけではない…のですが、詳細な写しを作ったということのようで。
地図そのものの持ち出しがご禁制となれば、写してしまおうというわけです。
かようにして写された地図(1852年)の展示もありましたけれど、いやあ、細かい細かい。
しかも地名が漢字でびっしりと詰まっておりまして、その漢字がへんてこな姿になってないことに
感心したりするのでありましたよ。
上のモレイラの地図やその後の模倣作には、
日本を取り巻く海に得体のしれない怪物が描かれている。
それほどに未知の場所であったところながら、
シーボルトが詳細な日本地図を世界に紹介することによって、
怪物の住むような場所ではないと知られるようになったでしょうか。
そうしたことと並行して、かつて黄金の国ジパングとまで言われたものの、
どうやらそうでもなさそう…と実状が伝わっていったかもしれませんですね。