さて、伊勢河崎商人館 を訪ねて、母屋と内蔵を見て回りましたけれど、
今度は裏手に抜けたところに建ち並ぶ外蔵の展示施設を覗いてみることに。



内部が展示スペースになっていたのはまっすぐ抜けて突き当たりの建物でして、
ここにもいろいろと興味深い展示がありましたですよ。



まずは、伊勢河崎の歴史を展示解説で振り返っておこうと思いますが、
古くは平安時代、書物に「河邊の里」とあるのが河崎の町だそうでして、
鎌倉時代のものにはなるものの、神宮徴古館所蔵の「伊勢新名所絵歌合」にも
「河邊里之図」と出てくるとか。


ですが、勢田川沿いの湿地帯でしかなかったところが町に変わっていくのは応仁の乱ののち。
「北条氏の遺臣が多くこの地に亡命」したと解説されていましたが、
これはいわゆる鎌倉幕府執権の北条氏のことなのでしょうねえ。
そういえば、鎌倉幕府滅亡後に執権北条氏 がどうなったのか考えたこともありませんでしたが…。


とまれ、町は伊勢参宮が盛んになるにつれて賑わっていき、
取り分けお伊勢参りは流行った江戸時代には隆盛を極めることになったと。
神宮参拝には伊勢街道(松浦武四郎 生家の前を通っている)を利用する陸路のほか、
三河国から船で伊勢湾、勢田川を経由して河崎に降り立つ「船参宮」という形があったそうな。
そりゃあ、賑わいもひとしおであったことでしょう。


明治になってもしばらくは水運が物流の主役であったため、繁栄は続きましたが、
明治30年(1983年)に参宮鉄道(現在のJR参宮線)が開通によって「船参宮」は減少、
鉄道貨物の集積地として生き残っていったようです。
それが輸送の主流がトラックへと変わっていった昭和には衰退の一途をたどることに…。


一方で、第二次大戦中に伊勢の市街地が空襲にさらされる中、
河崎は大きな被害を受けずに済み、そのおかげで古い町並みが残されたと。
今でも古いままに残る町並みが見られるのは、ある時点で町が衰退したことと
空襲を免れたことと言えましょうか。


とまあ、かような歴史を辿った河崎の町ですけれど、
商人の町として大いに繁栄した江戸期、いわゆる豪商が出現することになりまして、
「問屋の旦那衆を中心として文学(和歌・俳句)、茶道、絵画、華道、香道、囲碁、刀剣など
色々な文化活動が見られ」るようになったのだそうな。


そのような文化活動が花開いた背景にはかようなことがあったと

展示解説にはありましたですよ。

お伊勢さんのお膝元である宇治・山田は、そこで暮らす神主や御師の勉強のため、江戸時代初期にはすでに林崎文庫や豊宮崎文庫といった研究機関兼図書館がありました。また、伊勢参宮などを通じて人や物の行き交いが盛んなこともあり、学問的交流も活発に行われていました。

江戸時代後半には、公家や武家・僧侶といった人々の外に、経済力を蓄えた商人など庶民が文化の担い手として登場します。庶民の間に生活の余力も生まれ、和歌や俳句といったアカデミックな趣味を持つ人々が多く誕生しました。

なるほど伊勢には松尾芭蕉 のファンや門人が多くいたというのも、

こうしたあたりのことがあったのでしょう。
そして、お隣の松阪は本居宣長ゆかりの地ですから、

「和歌や神道や歴史を学ぶことによって日本の根源的なものを究明しようとする」国学が

庶民にまで受け入れられていたのといいます。


現在は伊勢河崎商人館となっている小川家でも、その蔵の中にはたくさんの蔵書があり、
往時のようすをうかがい知ることができるのですなあ。



左側の「和漢三才図会」は江戸中期のいわゆる百科事典、
右側には「古今和歌集」や本居宣長の著作「玉あられ」もありました。
さぞ勉強熱心だったことでありましょう。


ともう一つ、ここならではという展示を。
確か「ブラタモリ」が伊勢を巡った折にも触れられていた?「山田羽書」のことでして。



日本最古の紙幣としてその名を知られる「山田羽書」は何故に「山田」なのかが
伊勢河崎商人館の展示解説を見ていて「ガッテン」したわけですが、
ただの紙切れが紙幣として通用するということは

生半可な信用力ではなかったということになりますですなあ。



現存する最古の山田羽書は慶長十五年(1619年)に外宮の御師が発行したもののようですけれど、
河崎の商人も負けずに?元和年間(1615~24)に発行したものが残っているそうでありますよ。


という具合に伊勢河崎のかつての繁栄を、そして今ではレトロな町の佇まいをたっぷり見聞して、
一日の行程は終了ということに。近鉄伊勢市駅まで戻って、松阪へと戻ります。



(これ、外宮の参道とは反対側の駅出入口ですけど、ずいぶんな違いですよね…)