中伊豆巡り
の余韻も覚めやらぬうちに…ではありませんが、
図書館でふと手にした本に「北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか」という惹句を見つけ、
「そうだよなぁ、なんで余所からわざわざ将軍を連れてきて、自分らは執権なんだ…」
と思うわけでして、そりゃあ読んでみようという気になりますですよね。
何度も言ってますように日本史には疎いもので、
学校で教わったことのうろ覚えのさらに残骸が記憶の隅にあるくらいですが、
時代区分として奈良時代、平安時代と来て、お次は鎌倉時代と来る。
平安朝では京の都を中心に藤原一族が摂関政治を行って…というものだったのが、
源頼朝
が鎌倉に幕府を開いて鎌倉時代となるからには、
単純に政権は貴族の手から武家の手へ、政治の中枢は京から鎌倉へ移ったと考えてしまう、
というよりつい最近まで深く考えることもなく、そんなふうに受け止めてましたですね。
ところがところが、鎌倉幕府というのは東国という田舎で、しかも武士というならず者集団が、
「こっちはこっちでやりたんだが、認めてね」的な地方政権であったと聞くと「そうなの?」と。
鎌倉幕府の成立なんつうふうに聞くと、どうしても江戸幕府のように京は立てるけど
全国的な実権は全て江戸の将軍が掌握しているてなふうに、鎌倉が世の中心にみたいに
思っていたわけです。
江戸幕府の政治というのは、それまで鎌倉、室町といった武家政権がやってきた
いいところ、悪いところの学習を踏まえた結果であって、
鎌倉幕府にはそんな前例はないですから、
ともかくこんなん作ってみました、後はなりゆきで…てなものであったらしい。
そうした鎌倉幕府において、北条氏は頼朝と手を携えて戦った姻戚として
重きを置かれる存在であったことは間違いないでしょうけれど、
それが執権として権勢をふるう一方、それでも将軍ではない…という
微妙な立ち位置はなんとしたことでしょう。
ひとつ着目すべきは、2代執権となった北条義時のようですね。
思いがけずも早死してしまった将軍・頼朝の後、
頼家
、実朝も(北条の企みもあったでしょうが)短い生涯のうちに、
源家の将軍は途絶えてしまう。
まだまだ鎌倉幕府は滑り出しの時期で安泰ではありませんし、
御家人たちの中で北条氏の立場自体も安泰とは言えない。
そこで東の要である鎌倉には然るべき人物を将軍にお迎えする必要があると、
皇族から将軍を出してくれるよう願い出るわけです。
さりながら、京の都では先ほど触れましたように
鎌倉幕府は単なる地方政権みたいに思っていますから、
トップに誰を戴くかで困っているくらいなら討幕してしまえ!と後鳥羽上皇が言いだしたりして、
1221年に承久の乱(昔は承久の変と習ったような…)が起こるという。
天皇(上皇ですが)の大号令の下、大軍が鎌倉に押し寄せて脆くも幕府は…
との目論みとは正反対に義時率いる鎌倉勢が京にまで攻め上り、
あわれ後鳥羽上皇は隠岐へと流されてしまうのですね。
こうしたことは「鎌倉幕府、おそるべし」という意識とともに
鎌倉政権を結果的に全国に号令する立場へと押し上げて、
これに貢献した北条義時にはやがて「武内宿禰の生まれ変わり」との伝説がついて回ることに。
武内宿禰は大和朝廷の初期に歴代の天皇に仕え、
国務を補佐すると同時に反乱鎮圧などにもあたり、
また謀反を疑いをかけられるも見事に疑いを晴らしたという人物。
まさに北条義時を巡っての情勢は、
武内宿禰の事績の数々に准えられるものであったのでしょう。
この「武内宿禰の生まれ変わり」伝説によって北条義時とその後継ぎである北条一族は
将軍が誰であろうと(とは乱暴ですが)これを補佐して(補佐するとの名目のもとに)
国政をリードしていくとしての「執権」を世襲する背景にもなっていったようであります。
ですから、自らはトップ(将軍)にはならないけれど、
将軍はともかくもきちんと国政を束ねるのは補佐役としての執権の役どころであって、
こうした権力構図の中では将軍になる必然性は全く無かった…ということになるわけですね。
むしろなってしまったら基盤が崩れてしまう。
まあ、お飾りとはいえ歴代将軍の中には面白からずの思いを抱いた人もいたでしょうけれど、
段々と北条執権の地位は確固としたものとなっていき、それが極限に及んだのが
蒙古襲来に相対した8代執権・北条時宗であったそうな。
何とは無しですが、鎌倉幕府の独特なようすがまたひとつ分かったような気がしましたですよ。