沿道に和歌を刻んだ碑の並ぶ「歴史の道
」の終点(というより実際には始点ですが)のほど近く、
こんもりとした木立には「史蹟 斎王宮阯」と書かれた大きな石柱が建てられておりました。
斎王の制度は建武の新政の頃、南北朝の動乱の中で途絶えてしまいますけれど、
斎王が派遣されないとなると群行もない、女官や事務官も来ないとなるわけでして、
自ずと斎宮は荒れ果ててしまうことに。
その辺りのことを現地の解説板から引用しますと、こんなふうです。
15世紀中頃には斎宮は地名として残るのみとなり、斎宮の正確な情報は失われ「幻の宮」となっていきました。しかし、地元では斎宮に関わる土地であることが伝承され、旧跡として大事に保護されました。
つまり、この辺りにはかつて斎宮があったとは伝えられ、
松浦武四郎
の愛読書?でもあった「伊勢参宮名所図会」にはこの場所が紹介されているのだとか。
そうしたことから、この場所こそが斎宮の中心部と考えられるようになっていったことから、
先の「史蹟 斎王宮阯」の石柱は昭和4年(1929年)に設置され、
「斎王の森」として地元の人たちによって守られてきたということなのですなあ。
昭和43年(1968年)には神社司庁(伊勢神宮の事務機関だそうです)が案内板を設置し、
「(ここは)斎王御所の奈良時代以来の遺蹟である」と宣言?してありましたですよ。
ちなみにこの案内板には「斎王制度は遠く崇神天皇の御代に起源して
天武天皇以降その制度を確立し…」と記されておりまして、
この辺りは神社が伝承には疑いを差しはさまない姿勢と言いますか、
そんなことが偲ばれる気がしたものです。
これまで見てきたところ、斎王の始まりは天武天皇の代の大来皇女としていましたが、
伝承ベースに遡りますと、崇神天皇時代の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が始まりとか。
その次の代とされる倭姫命
(やまとひめのみこと)が神様を祀るお社をどこに設けたものか、
適当な場所探しを命じられて、結果伊勢に至ったわけですから、伊勢との関わりがあるのは
倭姫命からということになるような気が。もっともこの話も伝承ですが…。
とまれ、神社司庁がかような案内板を設置してほどない昭和45年から発掘調査が進められると、
この案内図でも分かりますように、この場所(図中の現在地)は斎宮の中心部ではなくして
方格地割の外れも外れとと分かってしまった…。
地元の人たちもなかなかに複雑な思いであったことでありましょう。
そんなふうに今は斎宮の中心でないことが分かってしまった「斎王の森」だけに、
鳥居のところから中を見通してみれば、石碑と思しきところにゴミがうち捨てられているようにも
見えましたですが、これは大きな誤解で、実際には花が供えてあったのでした。
もはや斎宮の中心ではないとしても、
「斎王の森」は「方格地割の北西の隅に位置していることから、 北東の丑寅神社と合わせて
斎宮を外部のケガレから守る重要な地であった」との可能性が示唆されて いるからでしょうか、
やっぱりここは斎宮にとって大事な場所だったんだと。
ま、花が供えられてあったのはそんな理屈っぽいことではないのでしょうけれど。
発掘なり調査なりによってそれまで信じてきた歴史が実は違うということはままあることで、
斎宮や斎王に関することもこれからどんどん塗り替えられていくのかもしれませんですね。