大黒屋光太夫一行の遭難は、「壁画」
のところと記念館
のところで二度も書きましたので、
どういうものであったかはもはやともかくとして、
伊勢若松近辺にあるゆかりの地を巡ったというお話を。
まずはこちらの「大黒屋光太夫顕彰碑」、
大黒屋光太夫記念館からほど近い若松公民館の敷地にありました。
1918年に建てられたものといいますから、
井上靖
に小説化の材料を与えたという初期の光太夫関連研究書が出た1937年より早くに
地元である若松ではかような碑がすでにあったのですなあ。
ちなみに題字の「開国曙光」という文字は、徳川家達に書いてもらったとか。
ご存知のように家達は、慶喜
の後に徳川宗家の十六代目当主となった人ですね。
(もはや征夷大将軍ではありませんが…)
そして、光太夫の伝記ともいえる本文の文章を
言語学者の新村出博士(今でも「広辞苑」の背表紙に見る名前)に依頼したとは、
この碑の建立に篤い思いが込められていたものと想像したりしましたですよ。
ちなみに光太夫顕彰碑の隣にどおんと大きな石碑がありまして、
遠目にはこちらが顕彰碑かと思ってしまうところながら、
どうやらこれは戦没者慰霊のためのものということで、お間違えなきよう。
と、こちらもまた記念館から目と鼻の先にある心海寺というお寺さん。
光太夫とともに帰還を果たした磯吉の菩提寺…ということでありますが、
先にも触れましたとおりに光太夫と磯吉は東京・本郷に葬られましたので墓所ではないわけで。
この写真の先に回って境内にもちらりとお邪魔してみましたが、
供養塔のようなものは見つけられませんでした。
一方、こちらは宝祥寺、根室までたどり着くもその地で亡くなったとい小市の菩提寺です。
こういっては何ですが、無念さにおいて小市は磯吉より一層と郷里の人も考えたのでしょうか、
門前に「小市之供養碑」が建てられておりましたよ。
ところで、宝祥寺本堂のお隣には寄り添うようにお堂がひとつ建てられておりまして、
中には地蔵菩薩の石像が安置されているそうです。
なんでもこの石像はお寺近くの海の底で光っているところを漁師に引き揚げらたものだとか。
言い伝えにもせよ建久元年(1190年)のことであったといいますから、
光太夫らの遭難までに600年近く、地元の人たちには海難除けなどのお地蔵さまとして
信仰され、親しまれてきたのだそうな。
案内書きには「光太夫や小市等は、お堂の附近で生まれ育った人々であり、幼少の頃より、
この境内で遊び、お詣りしたと伝えらえています」とあることから、光太夫の生還は
お地蔵さまのご加護、というよりお地蔵さまのご加護があると(光太夫らも昔の人だけに)
強く信じていたことも、力になっていたかもしれませんですね。
と、古くから海とともにあった思われる若松を歩いて、ようやって海沿いに到達。
ですが、この段階では堤防が巡らされて海が見えない…。その代わりに?
目に入ったのは鳥居で守られた石碑がひとつ、「山の神」と書いてありました。
日本の民俗的な事柄に疎い者としては、「山の神」とは箱根駅伝の…ではなくして
文字通りに「山」の神様、つまり山があるところにおわすものという気がしてましたが、
どうしてかような海っぺりに祀られておるものか。
そこでふと思い出したのは先に訪ねた磯吉の菩提寺・心海寺にありました解説の一節、
「…近隣の民家十数戸も続いて移転したのが現在山町の起源である」というくだりです。
ふらりと訪ねた者には分からねど、この辺りに「山町」という集落がある(あった)のですなあ。
ところで、この移転が必要になった理由ですが、海を遮る堤防と関わりがあるようで。
古来、あたりの海岸は「万葉古歌」に「吾の松原」(「わかのまつばら」と読んで若松の起源か)と
詠われた砂浜であったそうな。
妹に恋ひ吾の松原見渡せば潮干の潟に鶴鳴き渡る 聖武天皇
聖武天皇 は天平十二年(740年)に藤原広嗣の乱が起こりますと、
難を避けるように?伊勢行幸に出かけますが、その折にでも詠んだ歌でありましょうか。
そんな砂浜がやがて「急激な地盤沈下と波涛の浸蝕によって海岸線は年々後退し、
遂には近隣の民家と共に(心海寺の)境内は勿論、本堂床下にまで浸水するようになり
明治23年の県営築堤工事を機に」寺や民家の移転が行われることになってしまったようで。
さて、光太夫たちが見た海の姿はどんなだったでしょうかね。
伊勢若松をぶらりとしながら、実際に海に出くわすのはもそっと先のお話となってまいりますよ。