近鉄名古屋線の伊勢若松駅から途中、ほとんど車どおりも人どおりも無い中を
ゆっくり歩いて15分くらいでしょうかね。大黒屋光太夫記念館に到着です。
駅前で見かけたものと同じ思しき銅像がお出迎えしてくれましたですよ。
記念館は鈴鹿市が2005年に開設したとのことですけれど、
展示スペースはさほど大きくはない。ま、入場無料ですのでね。
それはともかく先に見た壁画
では、光太夫一行の漂流から帰国までが
あまりにさらりと流れていったしまいましたので、記念館の展示解説でもって
大変な思いをしたのだよということに別の面から見ておこうと思います。
天明二年十二月十三日(西暦では1782年)、
光太夫を船頭とする一行17人が神昌丸に乗り込んで、伊勢・白子湊を出航します。
が、難所と言われた遠州灘で大暴雨に遭遇、転覆回避のため帆柱を切り倒した神昌丸は
北へ北へと漂流することとなってしまったのでありました。
漂流すること、7カ月。漂流中に1名が死亡しましたが、残り16名は
アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着、陸地を踏むことができたのですな。
されど、酷寒の地で口にあう食べ物もない土地では病気に掛かる者が多く、
結果的に4年間滞在したこの島では7人が亡くなってしまいました。
島から抜け出すには毛皮商人たちを迎えにロシアから来るという船を待つことでしたが、
これがあろうことか着岸に失敗して大破、ロシア人ともども絶望の淵に立たされることに。
されど、少しずつ言葉を通わすようになったロシア人たちと協力し、
廃材を組み合わせて船を造るのですな。島を脱出した9人はカムチャツカ半島に渡ります。
ここで現地の長官に帰国歎願をするものの、それにはより上の判断が必要てなことで
話が進まない中で、3名の仲間が命を落としてしまいます。
残った6人は上の判断が得られるところを求めて、カムチャツカ対岸の沿海州オホーツク、
さらに内陸のヤクーツク、そしてシベリアの中心都市イルクーツクへと移動していくのでした。
ところがイルクーツクでも埒があかず、こうなったら皇帝へ直訴しかないと、
ペテルブルク行きを決行する光太夫。一方、イルクーツクでもまた一人が亡くなりました。
ペテルブルクで皇帝に会い、帰国の許可は得られますけれど、
この往復だけで1年の月日が経っているのですよね。
5人なった仲間のうち、ひとりは凍傷で片脚を切断していたので旅が続けられず、
一方ですっかり現地社会に馴染んだ若者ひとりはもう戻らない覚悟を決めており、
結果、光太夫、磯吉、小市の3人が帰国の途につくことになったのでありますよ。
オホーツク港を出たロシアの送還船はやがて根室に到着。
時に寛政四年(1792年)とは10年越しで3人は日本に戻ってきたのでありました。
しかしながら、鎖国政策の日本としてはすぐさま温かく迎え入れるでもなく、
松前藩から出向いた役人のお調べ中に、根室で小市が亡くなります。
伊勢に帰りたかったでしょうなあ。
結局のところ、日本に戻ってその後の生涯を全うできたのは光太夫と磯吉のふたりのみ。
では、そのふたりは無事に故郷の伊勢に戻って…とはならないのでして、
江戸に送られて将軍家斉の上覧を受け、さんざんに露国事情を聴き取られることに。
井上靖の「おろしや国酔夢譚」では、屋敷も与えられて江戸暮らしを強いられた…てなふうに
書かれてあったりするところながら、記念館の展示解説によりますと、
小説が発表された1966年には未発見の新資料がその後見つかったことにより、
短いながらも伊勢への帰郷が許されたりもしていたと。
光太夫と磯吉、それぞれに別のタイミングで2カ月ほどではあるものの。
こうした郷里への戻れたあたりまでを踏まえて、
吉村昭が2003年に小説「大黒屋光太夫」を書いたと紹介されていましたので、
折りを見てこちらも読んでみようかと思っておりますよ。
先に光太夫が帰還できたのは大きな人間力があったからでは…てなことを言いましたですが、
次々と仲間が命を落としていく過酷な環境にあって、戻ってこられたことは奇跡的とも。
ですが、ただ単に奇跡ではないのでしょうなあ。
例えば光太夫とともに帰国を果たした磯吉ですけれど、
アムチトカ島でロシア人と出会いがあった後、 彼らの言葉で「これはなんですか?」と聞くときには
「エト・チョワ」と言えばいいらしいと 嗅ぎつけたのが磯吉だったそうな。
これを契機に「エト・チョワ」を連発することで
ロシア人との意思疎通がどんどん図れるようになっていったのですから、
磯吉に帰国できたという奇跡が起きたのは、こうした嗅覚が味方した結果でもありましょうか。
では光太夫の場合はとなるわけですが、
「大きな人間力」それそのもので帰国できたとまでは言わずとも、
やはり奇跡を引き寄せる味方となったのは光太夫持ち前の大きな人間力だったのではと
思ってしまうのでありますよ。
と、記念館のことにあまり触れないまま長くなってしまいましたが、
展示されていた光太夫のロシア語による墨書を見たときには、
「光太夫自らの手になるものであるか」と実に感慨深い気がしたのですなあ。
直筆を見てあまり思ったことがないことながら、「ああ、実在した人物だったのだ」と。
何事にも実物を見てこそ思うことというのがありますですね。
たったそれだけのことでも、来たかいがあったと思ったりしたものなのでありました。