さて、芝・増上寺 を訪ねて広い境内を巡ってみますれば、石碑やらなんやら、
数々の建造物に出くわすのでして、ちょいとそのあたりをたどっておきたいということで。


まず目についたのがこちらの聖観世音菩薩像。由緒あるような類いの仏像ではなく、
むしろ新しいものとは思いますが、慈愛に満ちたいいお姿でしたので、つい。
台座には「ホテルニュージャパン罹災者のみたま とこしえに安からんことお祈りして」とありました。


聖観世音菩薩像@増上寺境内

ホテルニュージャパンの火災は1982年2月8日、翌日には日航機が羽田沖に墜落しました。

大惨事が2日続きで、新聞一面に踊った大活字が脳裡に蘇る気がしましたですよ。


と、はっきり記憶に残っている事件がらみのものもあれば、全く知らなかったものもあり。

こちらは「阿波丸事件殉難者之碑」というものでして。

1945年の事件ですから、知らなくともやむを無いところはありますが。


阿波丸事件殉難者之碑@増上寺境内

日米がいまだ交戦状態にあった時期ですけれど、

赤十字社の仲介による捕虜支援物資を載せた貨客船阿波丸は

本来的には病院船に準じた扱いで攻撃されるはずではなかった…ところが、

米海軍の潜水艦が魚雷攻撃をしてしまったことで、阿波丸は沈没。

600名の非戦闘員を2000人余りが南海の海に飲み込まれてしまったということのようです。


ここで話に深入りはしませんけれど、ひとつだけ言えることは

武器を持っていると常に間違いが起こる可能性を抱えることになるとは言えましょうかね。


め組供養碑@増上寺境内

こちらには「め組 」という文字が見えましょうか。

歌舞伎にもなった「め組の喧嘩 」で有名な火消しの組のひとつでして、

そも喧嘩の発端は増上寺にほど近い芝神明(現在の芝大神宮)での相撲興行がらみ。

きっと「め組」もこのあたりが根城だったのでありましょうかね。


この婢はそんな「め組」の本業?である火消しで命を落とした者たちの供養碑とか。

享保元年(1716年)に建てられたようです。


千躰子育地蔵菩薩@増上寺

さてとこちらは「千躰子育地蔵菩薩」だそうで。

子育てを守るお地蔵さんとあって、風車を片手にニット帽をかぶって赤ちゃんふうのようす。


これが(1000体あるのかは分かりませんが)この写真の奥の方にかなりずうっと並んでいる。

比較的、色彩に乏しいお寺さんにあって、ここはカラフルで賑やか。

楽しい演出は子育ての応援歌でもありましょうかね。


四菩薩像@増上寺

徳川家墓所の近くには四つの菩薩像が並んでおりました。

右から普賢菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩だということながら、

まるで修学旅行生4人組みが東京タワーをバックに記念写真を撮ってとせがんでいるようで、

ついついシャッターを押してさしあげたのような次第です。


グラント松@増上寺境内

と、こちらは建造物ではありませんですが、なかなかに立派な松の木。

三解脱門をくぐってすぐに出くわす位置にあって、名を「グラント松」と。

1879年(明治12年)に米国からグラント元大統領(南北戦争の北軍将軍だった人ですね)が

国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣した際に植樹された松だということです。

ちなみに上野公園にはヒノキの植樹をしたそうな(何かと上野と縁のある増上寺ですね)。


増上寺に境内にはもひとつ(いちばん上の写真の)聖観世音菩薩像の近くに、

「ブッシュ槇」というものありまして、パパ・ブッシュ大統領来日時に植樹した木もありますが、

さほどありがたみが無いのでパス(思い切り逆光だったこともありましたので)。


まあ、他にも「魚供養碑」とか「筆塚」とかまだまだあるんですが、

ちと端折って最後にもうひとつだけ。こちらです。


法然上人之像@増上寺

誰だかお分かりになりましょうか。見る人が見れば分かるのでしょうか。

ちなみに仏教に疎い者ですから全く分かりませんでしたが、法然上人なんだそうです。

増上寺は浄土宗の大本山ですから、開祖・法然の像があっても全くおかしくはないものの、

剃髪もしておらず、童のような姿だものですから、とんと見当がつきませなんだ。


増上寺の公式HPには上人の紹介として

「9歳の時に父を殺された法然は、その遺言によって出家し、比叡山に登ります。

そして、承安5(1175)年、43歳で「浄土宗」を開きました」とありましたので、

叡山に登る直前くらいの姿なのかもしれませんですね。


いやあ、お寺さんの境内をひと回りしたことが機会になって、

いろいろと知ることがあるものですよね。

自分の関心ありきでは出くわさないものに出会うと「ほお~」となったりしますので、

実に興味深い限りでありますよ。