ちょいと浜松町に出掛けた折、
立ち寄った所にこのようなものが壁に掛けられてありました。
本来は風呂敷のようですが、おそらくは江戸期の切絵図を図柄にしたもので
近辺の地図であることから、壁飾り的に掛けられていたものでありましょう。
これを見ますと、浜松町界隈、芝のあたりは
寺町であったのだなということがよく分かりますですね。
中央にどっかりと描かれている増上寺は別格としても、周囲には「○○院」やら
学寮(大辞林に曰く「江戸時代,寺院で僧侶が止宿して修学する所」)やらが
ずらり並んでいるのですから。
そんな中にあって、画像では真ん中下の右寄りには
「飯倉神明宮」というのもちょっと大き目な存在でありますね。
どっかで別のものを見かけたなと思い出してみれば、
すぐそばの道端にあった案内板でありました。
こちらには芝神明とありますけれど、先の飯倉神明宮とは同一のお社で、
ここに使われた歌川国丸の絵からは、描かれた1820年頃の賑わいが
伝わってくる感じがしますですね。
JR浜松町から大門へと続く道沿いは
今ではビルが立ち並んでいて往時を偲ぶよすがとて無さそうな様子。
ではありますが、特段の用事でもなければおそらく入り込むこともない裏道へと
少々の時間を利用して(少々なだけに増上寺まで寄っている時間は無かったですが)
入り込んでみましたですよ。
すると、かつては寺町であったことを思い出させるように
確かにお寺さんもあるにはあったですが、もはやそれらしい構えでもなく。
時の移り変わりだぁねと思いつつ、もそっと奥へと進んでみますれば、
今度はかような黒板塀の一角に突き当たり、
ビルの谷間で健気に生き伸びていることに感心したり。
まあ、そうした新旧混在のエリアにあって、
国丸の描いた門前市をなす賑わいはもはや昔日のことと思われる人通りの少なさと
後に見える東京タワーが印象的な芝神明に辿りつきました。
しかしまあ、ずいぶんと押し込められてしまった感がありますが、
江戸期には相撲の興行が行われたりもしたそうですから、
やはりそれなりの格式も、そして境内の広さもあったのでしょう。
ところで、この芝神明と相撲興行に関して、こんな絵もあるのですね。
これは歌舞伎「神明恵和合取組(かみのめぐみ わごうのとりくみ)」の一場面を描いたもの、
真ん中に見える白い鳥居がいかにも芝神明でありますですね。
歌舞伎の演目に取り入れられたのは明治になってからとのことですが、
元になった話というのが1805年(文化2年)起こった火消しと相撲取りの大喧嘩だなそうで。
細かいことは端折りますが、芝神明での大相撲春場所見物で
木戸銭を「払え」「払わねえ」てなあたりが発端となって、大乱闘が生じ、
結果、火消し側、相撲取り側合わせて30数名がお縄につくという騒ぎだったようで。
しかも、火消しは町奉行所へ訴え出、相撲取りは管轄の寺社奉行に談じ込み、
果ては何故だか勘定奉行(おまかせあれとは言わなかったでしょうが…)まで登場して、
三奉行揃い踏みで事の対処に当たるというのは珍しい事例だったようです。
まあ、喧嘩両成敗なんつう言葉がありますが、
このときのお裁きはずいぶんと火消し側に厳しかったようですけれど、
騒ぎに乗じた火消し連中、有事にしか使っちゃいけない半鐘を叩いて煽ったのが
咎められたようで。
で、この芝神明での大喧嘩の一幕、俗に「め組の喧嘩」として知られるそうなんですが、
これが歌舞伎にもなって語り継がれていたとなれば、
火消しでひとえに「め組」が有名なのも頷けようかというもの。
ラッツ&スターの「め組のひと」がヒットしたからというわけではなさそうですね…。