世界遺産の「高山社跡」を訪ねる前に高山社情報館 でもって少々事前学習し、
いざ参らんというところで高山社跡へと続く道の入口にはかような注意書きが。
山なかに来たものですなあ。


イノシシ出ました!

ちなみに今回動き廻った辺りで見かけた看板としては
「シカ注意」、「クマ注意」、「マムシ注意」、「こども注意」…。ま、いろいろです。


とまれ、イノシシに出くわすこともなく木立を抜けていきますと、
ちょっとばかり高台にあるために立派な長屋門を見上げる形になりました。


高山社跡の長屋門

ここで思い出したのが、先日訪ねた八王子の山あいにある絹の道資料館
やはり生糸の商売は儲かったのでしょうなあ。


典型的な養蚕農家風

門を潜ると目の前に現れる母屋は屋根の上に換気口の付いた「いかにも養蚕農家」らしい形。
蚕の飼育に「清涼育」を取り入れた伊勢崎の田島弥平が作り出した「近代養蚕農家の原型」が
ここにも生きているといことですね。


全国各地からの訪問者の中には「うちの地方とおんなじだ」と仰る方がいるようですが、
どこの地域の養蚕農家にも見られるというこの形は群馬から伝わったものなのですよと
高山社情報館の方が言ってましたっけ。


そうした養蚕農家の家屋は、高山長五郎が編み出した蚕の飼育法「清温育」とともに
全国各地に伝わっていったのでありましょう。


そも高山社は「村内農家の経済的な安定」を図るために作られたものだったわけですが、
そのためには養蚕技術を伝授する必要もあり、伝習所が設けられたのですよね。


生産性の高さが評判を呼んだか、指導する農家が600戸を超えた明治20年(1887年)には
山あいを離れた藤岡町の方に大きな施設を作り、それがやがては
明治32年(1899年)に公布された「実業学校令」による認可を得て、
私立甲種高山社蚕業学校となっていくのでありますよ。


蚕業学校の全体像@高山社情報館

蚕の飼育法の伝授と言いつつ、実業学校となったからには現在の高校に相当し、
しかも明治期のことですから准エリート養成的なところでもあったのでしょうなあ、
専門教育だけでない所謂普通教育も施すわけでして、情報館の展示で卒業証書を見れば
国語、漢文、作文といった科目があったことが分かります。


蚕業学校卒業証書

この学校には各地から入学希望者があり、卒業した者は各地に帰って
地域の指導者になっていったようですけれど、もそっと直接的に近隣農家の子弟向けには
この実業学校とは別に分教場があちらこちらに設けられたようですね。
そのひとつがまさにこの「高山社跡」となっている場所にもあったそうな。


分教場時代の高山家を描いた絵

建物としては、この絵のままに残されているわけではありませんけれど、
敷地内を歩いてみれば、いろいろな建物が建てられていたのであろう、
区画の名残などが見てとれるのでありますよ。



と、敷地内には建物区画の名残、そして母屋の建物もよく見ればサッシが嵌っていたりして
往時の面影を偲ぶにはちと痛いところがあり、それだけに「世界遺産なの?」との声が聞かれるとも。


ですが、ここは建物を見て「ほお~!」と思う景観とかいう点ではなくして、
日本の近代化を担った養蚕業の技術革新がここから始まったという側面こそが世界文化遺産なのですよと
(そういうふうには言ってませんでしたが)現地のボランティアガイドの方は言いたそうでありました。


世界文化遺産に接するときに「見る」だけで済ませてはもったいないということでもあろうかと。
いろいろと「知る」ことに訪ねる価値がありそうですね。