だんだんと「焼きもの 」に近寄っていくようになってきている今日この頃ですが、
手近なところに見る機会があったものですから、自宅最寄駅至近のたましん歴史・美術館へ
開催中の「東洋古陶磁展 造形と意匠」に見に立ち寄ってみたのでありました。
(「たましん 」というのは…とは、以前お伝えしましたっけね)


「東洋古陶磁展 造形と意匠」@たましん歴史・美術館


「造形と意匠」というだけあって、陶磁器に施される龍文、鳳凰文、雲気文といった

デザインの説明も豊富にあったのはビギナーには助かるところであったなと。


ところで、そうしたデザインの中のひとつとして
獣の頭部を象った「獣首」と言われるものがあるようですが、
本来的には青銅器や銅鏡などに立体的なレリーフで造形されていたものが、
漢の時代になりますと陶磁器が青銅器の代用品とされるようになり、
デザインも青銅器に倣って「獣首」が施される例があったそうな。


前漢時代「灰陶加彩雲気文壺」(部分)


例えばこの「灰陶加彩雲気文壺」は

前漢時代にあたる紀元前3世紀~1世紀頃に作られたもの。
「雲気文壺」ですので吉兆としての「雲」の模様が施されていることはもちろんながら、
それ以上に目を引くのは「獣首」の方でしょうか。


ですが、この辺りの作品は「焼きもの」という感覚よりも考古学的な出土品という印象かと。
まあ、やがては焼きものとして実用に供されるとともに愛でられるようになっていくものの
先駆ということにはなりますしょうかね。


前漢時代に作られたという陶器の馬(「漢加彩馬」)もありましたなあ。
秦の始皇帝陵の副葬品たる兵馬俑 は実物大に作られたものでしたけれど、
前漢時代には小型化していったようです。


前漢時代「漢加彩馬」(部分)


さりながら「歯を見せて唇をめくりあげる表情は名馬の象徴」とのこと。
そも副葬品には「あの世でも不自由ない暮らしをしてほしいとの願い」が込められたとなれば
馬も単なる駄馬ではなくやはり名馬(らしい作り物)を一緒に埋めることになるようですね。
ちなみにかような副葬品のことを「明器」といい、「俑」はその一種だということです。


俑は唐代になっても作られ、彩色がより鮮やかになるそうな。
それこそ焼きものの世界には「唐三彩」てな言葉もあるわけで…と言っては

さも訳知りのようですが、言葉こそ聞いたことがあってもどんなものなのかは

改めて調べておくことに。コトバンクによりますと、このような説明がありました。

中国,唐前期 (7世紀末~8世紀初) に焼かれた,白地に緑,褐,藍色などの釉 (うわぐすり) で文様を表わした陶器。白,緑,褐色の3色の組合せが最も多い。器形には盤,水瓶,壺のほか人物やらくだ,馬などを表わしたものがあり,文様は型押し,彫り,貼花による。多くは墓に副葬する明器 (めいき) として作られた。この陶器は,遼三彩,奈良三彩,ペルシア三彩などに影響を与えた。

結局のところは多くは明器として作られたとなりますと、焼きものの進化は

副葬品需要に支えられてきたのでもあらんかと思ってしまうところですなあ。


展示には唐の時代(8世紀)の彩色されたものとして「婦女俑」がありましたですが、

ふっくら豊満なその姿は「時代の嗜好」でもあったとか。

解説にもあったとおりに高松塚古墳 壁画や正倉院の天平美人にも通じる

姿かたちであるとは見てとれるものの、美人の受け止め方自体もまた唐伝来なんですかね…。


さてと、もそっと時代を進めて遼の時代(10世紀から11世紀にかけて)、

中国北部を広く支配した契丹族の開いた王朝の時代の作例ですけれど、

独自性があるなと思いましたのは「皮嚢壺」(ひのうこ)というものでして。


遼時代「皮嚢壺」

馬で移動する際、酒や飲み水を入れて持ち運ぶために

動物の皮で「皮嚢」なるものを作っていたとは実に遊牧民族である契丹族らしいところかと。


それが王朝ができて国として安定してきますと、

馬で持ち運ぶ携帯性も器の柔軟性もあまり考慮しなくていいようになったこともあったでしょう、

磁器で器を作るようになるわけですが、それでも形は伝統的な「皮嚢」を模してしまったと、

これも契丹族の伝統のなせる技といいますか。

日本では上部の取っ手部分の見立てからでしょうか、「鶏冠壺」とも呼ばれるそうでありますよ。


…と、「焼きもの」のというよりも考古学出土品のお話というふうになってしまってますなあ。

まあ、「焼きもの」を愛でることは未だ興味発展途上だもので、

つい歴史的なところの方に目が向いてしまうということでもありますな。


とまれ、長くなってしまいましたので「後半へつづく」ということに。

自らの備忘のためにもも少し記し残しておきたいものですから。