元来こわいのは苦手でありますから、当然にして「おばけ」の類いは近寄らず…。

ですが、うっかりにもせよ「おばけ美術館」なる展覧会に足を踏み入れてしまったのですな。

JR国立駅前にあるたましん歴史・美術館で開催中の展示でありますよ。

(ちなみに「たましん」とは多摩信用金庫のことです)


おばけ美術館@たましん歴史・美術館


趣旨としては夏休み期間中の子ども向け企画でありますし、作品をよおく見ることで

「どこに怖いという気持ちを感じるか、どんなところがおばけのように見えるか」を

子どもたちに想像してもらうことが意図されておりますので、さすがにそれなら大丈夫だろうと。


実際、円山応挙の幽霊図のように直接的におばけを描いた作品が並んでいるわけでなく、

むしろシュールな描かれようで一見したところ「なに、これ?」と思ってしまうような絵の中に

何が見いだせるだろうか…ということなわけでしたので、ほっとしましたですよ。


今さらながらに考えてみれば「怖いと思うから怖い」とはおそらくその通りなのでしょうなあ。

何かいそうだ…などと想像を逞しくしてじいっと見えれば、いかにも何かそれらしいものが

見えてしまうということがありましょうしね。


不思議なことに、神様はいるのかいないのかといったこと以上に

自然界には「何かいる(という気がする)」と思う方が非常に原初的な感覚であって、

人間との付き合いは相当に長いでしょうから。


例えば森の中には、山の中には、海の中には何かいるというのは

その場に臨んで不可思議な感覚に襲われた場合、直観的に結び付けやすいことであって、

ヒトの文化的発展度合いとはさほどに関わらずとも理解できそうな一方で、

ヒトを律するような神様の存在というのはヒトがそれなりに社会性を身に付けてきて

集団での規範といったことを考える中で生み出されたものでありましょう。


神話にしても「物語」の体をなすとはやはり文化的な発展を経なければ

成立しない(実際には成立させえない)ことでしょうから。


ですので「怖がり」というのは、

ヒトの原初的な遺伝子を多く引き継いでいるのかもしれませんなあ。

畏怖したり祈願したりする対象物を形に表すときに、その形の多様性は

いろいろなものごとに怖がることだとすれば、縄文人気質なのかもしれませんですよ。


と、そんな余談はともかくとして、

子どもたちが何かを発見しそうな作品をコレクションの中から選び出して

「なにが見えますか」といった語りかけを作品ごとに付けてあったわけですが、

おばけが見えるかどうかとは別にシュルレアリスムや抽象絵画を目の前にして

「なにが見えますか」と素朴に訊かれたとすれば何と答えるだろうかと考えることは

なるほど作品世界により入り込むことにはなりますですね。


絵を見るときにはそれこそ直観的に何かが反応するという場合もありますけれど、

そうでない場合もあって、ともすると後者の場合は一瞬の後に次の作品へと目を転じてしまいがち。


それをもそっと立ち止まって対峙したならばどうだろう…ということを思わせるわけで、

近頃になって頓に美術館へは多少の空き時間ではとても行けんなと考えたりしていることから

「やっぱりそうだよね」と。


ここで子どもたちが何をどう見て、どう思うかには

正解が無い(言ってみればどれも正解)ことなわけですけれど、

おそらく学校教育の中ではそんな悠長な授業はやっていられないのだろうなあと思ったり。
その代わりに夏休みの経験のあれこれが補完してくれるとなれば、夏休みは結構大事ですな。

もっとも子どもたちの思惑とは異なる大事さかもしれませんですが(笑)。


と、およそおばけの話にならない見聞を得た「おばけ展覧会」なのでありました。