松江城 二之丸の中櫓を覗いてみたら…というお話の続きでありまして。
「お城を学ぶ まつえ城学」、「みやげ話は荷物にならぬ!」と書かれた幟旗が
戸口前にあったことから櫓の中にひょいと首を突っ込んでみますと、
あまり日がささず薄暗い中にあたかも寺子屋といった風情で小机と座布団が並んでいるのですな。


そして、正面奥には(大河ドラマを思い出してもらえればと思いますが)
戦陣にあるかと思しき武者姿の御仁がどっかと腰をおろしているではありませんか。
兜を外しているものの陣羽織を付けたこの御仁に(不覚にも)声を掛けられてしまったのでありますよ。


まあ、あまり観光客のいない日で暇にしていたのでしょうね。
かかる御仁は(後から知ったことですが)「まつえ若武者隊」の隊長で、
櫓の中でアトラクション的に座講をやっているようすでありました。

お城雑学と戦国武将占いの二本立ての講義?で500円なりと。


どちらか一つなら300円ということで、
(先ほど不覚にもと言いましたように)声を掛けられてしまいましたのでお付き合い程度に
「それではお城の話の方を…」と申し出れば、どうやら「売り」は戦国武将占いの方だったらしく
武者姿でなんとも残念そうなようすを見せられると憐れを誘うと言いますか。


乗りかかった船てなものですから「それでは両方」と改めて申し出たところ、
紙芝居状の小道具を取り出して、まずはお城の話を若武者隊隊長が

語り出したのでありました。


話としては知っていたこともあり、「ほうほう」と思うこともありましたけれど、
せっかくですからちと振り返っておくといたします。


今の時代に「お城」と聞いて思い浮かべるのは松本城だったり、姫路城だったりしますけれど、
例えば武田信玄の本拠は躑躅ヶ崎館でそれこそ松本城や姫路城とは趣の異なる佇まいであるも
こうした砦(というには大掛かりですが)なども含めて城といった場合に、
戦国前夜の室町時代には全国に三万から四万の城があったのだそうな。


やがて戦国末期になって「天守」が造られるようになり、
お城が今想像するイメージに近くなっていったわけですが、
戦国期に数はもっと増えたのではないですかね。


ところが日本中に数多あったお城の中で、
後の復元などではない「現存天守」を持つ城は全国に12しかないという。
理由のひとつは徳川の世が定まってきたときに出された「一国一城令」で、
幕府のお目こぼしがあればひとつだけでない場合もあったようですが、
それでも限りなく城の数は減らされることにはなったのですなあ。


理由のもうひとつは明治新政府による「廃城令」。
古い時代の象徴のようなお城は(一部、軍用などで積極利用する場合を除き)破却することが
求められた結果、さらにお城は減っていった。


さらに加えて第二次大戦での空襲に曝された(何せ目立ちますものねえ)こともあって、
昔のままに天守を残す城は12のみということでありますよ。


ちなみに蘊蓄として教えてもらったのは「天守閣」のこと。
普段、お城の一番高く聳えるあたりを「天守閣」と言ったりしますけれど、
どうやらこの用語は明治以降に生まれたものであるらしいのですなあ。


昔は城の構成要素としてある櫓のなかでも一番立派なものとして「天守櫓」と言われたり、
それが簡略化されたか、単に「天守」と言われたりしたようですが、
明治になって外国語との関係が出てきたときに「城」は「castle」でいいとして、
天守部分は「castle tower」と訳されたとか。


この「castle tower」が今度は日本語訳されて「天守閣」と「閣」を付けたらしい。
浅草十二階 と言われたタワー が「凌雲閣」と名付けられたように「閣」は
高いものを指していたのでしょうね。


そんなこんなの蘊蓄話に続いては、戦国武将占いとやら。
心理テストのようなことが書かれたシートにある設問にイエス、ノーで答え、
辿りついた先がもっとも性格的に?近い戦国武将であるというもの。


武将の名前が明らかになったところで、その武将ゆかりの言葉を写経のように筆ペンでなぞり、
お札状のものが出来上がってお土産になるという。
必ずしも得心のいくものではありませんが、結果は「武田信玄」と出ました。
「人は城 人は石垣 人は堀」となぞって書いてきましたですよ。

 



ま、少しは「まつえ若武者隊」の活動支援にはなりましたですかねえ。