先に「にいがた文化の記憶館 」を訪ねたときには、
同じビルの同じフロアにある「新潟市會津八一記念館 」には去年寄ったからいっか…と、
そんなふうに思っていたのですけれど、開催中の企画展タイトルが「會津八一と吉野秀雄」とある。
吉野秀雄かあ…。結局のところ、こちらの方も覗いてしまったのでありますよ。
といって、吉野秀雄
なる歌人に詳しいわけではありませんで、
だいたい会津八一と関わりがあったことも知らなかったですが、
どうやら歌の道では唯一の弟子、しかもそれが押しかけ弟子といったようでもあって。
ということで吉野に関しては、前に吉野の故郷である群馬県の高崎を訪ねた折に
少しばかり歌集に接したりしたものですけれど、はて八一との関係は?というわけです。
吉野が初めて八一の歌を知ったのは大正14年(1925年)、
雑誌「木星」の「中村彝 (画家ですね)追悼号」に、
中村が深く心を揺り動かされたという八一の歌六首が紹介されていたことからという。
たとえばこんな歌です。
はなすぎてのびつくしたるすゐせんのほそはみだれてあめそそぐみゆ
かな書きで通すだけで八一らしい気がしてしまいますけれど、
もちろん歌に取り組む吉野の目にとまったのはそんな外側ではないにせよ、
吉野は八一に文を送り、これに八一が丁寧に返す。
そんなやりとりがあったのちに、
押しかけ弟子同然の吉野に八一はつらく当たるようなところもあったそうな。
ですが、のちに八一が語ったとされるこの言葉に吉野への愛憎が見えるような気がしますですね。
私の一番嬉しいことは、吉野さんの歌の何処を見ても、単語でも、調子でも、私の歌に何一つ似たところが無いことである。…いわば、吉野さんの歌は、全然吉野さんのものとなってゐる。
それほどであるなら弟子になんぞならなくたっていいのでは…とも思えたりするような。
八一には奈良を題材にした歌がたくさんありますけれど、ちと八一と吉野を並べてみますか。
いかるがのさとのをとめはよもすがらきぬはたおれりあきちかみかも
驛前に借りける傘を斑鳩の里のしぐれに傾けて行く
それぞれに斑鳩を訪ねた歌ではありますけれど、
八一には敢えて古さをまとわせる個性があり、吉野は「今」をこそ詠む個性があったのでしょう。
ただ、八一の側とは別に吉野の側としては師を慕う気持ちは強く、
1956年、八一の葬儀で新潟を訪ねた吉野はこんな歌を残していると。
萬代の橋より夜半の水の面に涙おとしてわが去らむとす
新潟市會津八一記念館の入っている新潟日報メディアシップの展望台 から
見下ろした信濃川に架かっていたのが萬代橋ですけれど、
その橋のたもとにはこの歌を刻んだ歌碑があるのだそうな。
あいにくの雪模様で見に行くことはできませんでしたが…。