新潟駅前から程近い敦井美術館 に立ち寄った後、
雪の中をせっせと歩いてたどり着いた新潟日報メディアシップ。
このビルの展望フロア に上ってみたことは先にも記したですが、同じビルの5階が目的地でありました。
昨年、やはり新潟出張の折に訪ねた「新潟市會津八一記念館 」と同じフロアなんですが、
そのときには展示替えか何かだったのでしょうか、閉まっていた「にいがた文化の記憶館」、
今度はこちらに立ち寄ったのでありますよ。
常設の展示としては「人々を知と歴史の散歩にいざなう『学びの回廊』
新潟の偉人たちが再発見できます」ということで、
新潟出身あるいは新潟と関わりの深い人物を分野ごとにまとめて、
個人の業績とともに相関図でもって交友等の関係を示したになっておりました。
一方、特別展示として開催中であったのが(2月12日で会期は終了しましたが)
「蕗谷虹児生誕120年記念 少女人気を二分した抒情画家・虹児と華宵」展。
まずはこちらをじっくりと。
見るからに「大正浪漫」的な気配を漂わせておりますが、
大正期から昭和初期にかけてでしょうか、少女向け雑誌の表紙や挿絵を描いて
人気を二分していたという蕗谷虹児と高畠華宵を取り上げた展覧会で、
高畠は宇和島の出身ながら蕗谷が新潟県新発田市の出身とあって、
その生誕120年にあたっての特別展であったようです。
ところで、少女雑誌の表紙や挿絵で当時の乙女たちの心をつかんだ画家たちの絵をして、
「抒情画」とは?展覧会タイトルにも蕗谷と高畠を「抒情画家」としています。
これは詩作の流行を背景としているようで、
少女雑誌でも詩の投稿コーナーが人気を集めたそうなんですが、
「抒情詩」の絵画版てな意味合いから「抒情画」という言葉を蕗谷虹児が作り出したことによるとか。
本来的な「抒情・叙情」とは必ずしも一致していないのではと思われたりもするところですが、
まあ「抒情画」はある種ブランドとして固有名詞的に使われたりもしているということでしょう。
ですので、改めて「抒情画」を展示解説から引いてみますとこのようになるのですな。
大正から昭和にかけて流行した少女雑誌を飾った表紙絵や口絵、挿絵のジャンルを「抒情画」といいます。
そもそも「少女」という存在が近代日本の中で生まれたのは明治後期ということですけれど、
そうした存在をターゲットに大正から昭和初期にかけて発行されていた少女雑誌とは
どれほどあったのか、展示の中に雑誌名を見出せるものを拾ってみますと、
「少女倶楽部」、「令女界」、「少女の國」、「少女画報」、「少女の友」などの名が。
雑誌によって対象年齢層を低めや高めに設定している違いはあったりするところながら、
出てる出てるという感じ。
今でこそ雑誌の地盤沈下は甚だしいものがあるものの、
昭和のひと頃には雑誌が花盛りを迎えていたことがあるわけですが、
それよりも何十年も前にこの様相は、少女雑誌の賑わいを偲ぶに十分ではなかろうかと。
というところで、展覧会のメインになる作品のこと、
蕗谷虹児と高畠華宵の絵のことにあまり触れておりませなんだ。
うっかりするとどちらの作品?と思えるものもないではないのは、
線画の作品を見る限りではどちらにもビアズリーの気配が漂っていたりするからかも。
ただ、彩色画になると様子が変わってきて、展示解説から引いてきますと
蕗谷の描く女性像が「知的でモダン」であることに対して、
高畠の方は「中世的で妖艶な美少年や美少女を多く描いた」という違いでもあるようで。
上のフライヤーでは、右上が蕗谷、左下が高畠作品です。
これらだけで決めつけるのは如何なものか…ではあるも、まあ的を射た説明ではありましょう。
ですが、蕗谷虹児は一念発起してパリに出、作品をサロンに出したりもしていたわけで、
そっち方面の作品を集めた展覧会があったらなあとは思いますですね。
もっとも作品数が少ないのかもしれませんけれど…。