いやはや、今年は週末になると天気が悪いてなことが続いていただけに、

気付いてみれば丸ふた月も都心に出ておりませなんだ。

一応は東京都民ながら、つい「東京に行く」と言ってしまいそうなくらいでありますよ。


折しも昨夜から降り続いた冷たい雨が止んだのをこれ幸いと

渋谷まで出かけた目的はオーチャードホールでの演奏会。

知り合いが所属するアマチュア音楽団体・東京アカデミッシェカペレ の公演なのでありました。


東京アカデミッシェカペレ 第54回演奏会@Bunkamuraオーチャードホール


ここでアマチュア音楽団体と言いましたのはオーケストラと合唱団を併設する団体だからでして、

演奏会ではこれまでも必ず合唱付きのオーケストラ曲が取り上げられてきましたが、

今回はオール・ストラヴィンスキー・プログラムなのでありました。


前半は無伴奏合唱による「アヴェ・マリア」、「主の祈り」に続いて、

独特の楽器編成(ヴァイオリンとヴィオラがいない…)に合唱のついた「詩編交響曲」。

「詩編交響曲」の独自性はいかにもストラヴィンスキーと思わせるところながら、

一度聴いたくらいでは少々つかみどころがないような。

それに対して、無伴奏の宗教合唱は思いのほか癖が無い気がしたものです。


が、ここで少々話を広げようと思いますのは、

後半に演奏された(オケのみの)「火の鳥」なのでありますよ。

1910年全曲版による演奏だったものですから。


元来、バレエ である「火の鳥」にはストーリーがあるわけですが、

音楽はある種当然にしてそのストーリーに寄り添うことになりますですね。

ですから、音楽が目立つところもあるけれど、そうではないところもある。

バレエ公演の際に演奏されるはずの全曲版はバレエが演じられていることを前提に

成り立っている音楽ということになろうかと。


そんなところへ、作曲者自らが組曲を編んだ。

しかも1911年版、1919年版、1945年版と3回も組曲に仕立てているのですな。

想像するにこれは、バレエに寄り添わない音楽作品として聴いてもらうために

作曲者として手を加えた証しとも言えましょうか。


もちろん、バレエの無い演奏会で全曲版が取り上げられるのを厭うものではないでしょうが、

どうしてもバレエあってこその繋ぎのシークエンスやら箸休め的な部分やらは

音楽だけで聴こうとした場合にちと難しいと言いますか。


また、刺激的なことで有名な「魔王カスチェイの凶悪な踊り」も

組曲版では「バン!」と唐突に現れる効果は絶大なのですけれど、

その断片のようなものが前触れ的にゆるぅく出てきてしまう全曲版では

ややインパクトも薄れようというものですし。


と、こう考えて思うところは

やはりストラヴィンスキーのバレエ音楽ながら「春の祭典」には組曲版がないではないか、

バレエ公演を前提としている点では同じなのに…ということ。


ですが、ひとつには尺の問題(「火の鳥」全曲版が50分くらいなのに対して、「春の祭典」は30分強)、

もうひとつはこのバレエがストーリーを分かってもらうことよりも

踊りに重点が置かれているであろうこと、そしてそのようにストーリー性に縛られないところから、

音楽自体の存在感がすでに独り立ちできるほどの作品になっているというのが、鍵でしょうか。


1910年の「火の鳥」から1913年の「春の祭典」までたったの3年。

その間にストラヴィンスキーも、またバレエ・リュスも表現を大きく広げたのだろうな…

てなことを想像させられた「火の鳥」全曲版なのでありました。


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