ちょこっと「見る」楽しみを満たしてくれるところが近くに(自転車圏内ですが)あるというのは
なんとも贅沢なことなのではとも思いますけれど、気軽に寄らせてもらっているのが
武蔵野美術大学美術館 。何せ、交通費も入場料もかかりません(笑)。
3つの展示が同時並行で開催されていて、それぞれを覗いてみるわけですが、
まずは近頃ようやっといささかの興味が湧きかけてきている焼き物の関係。
「やきものの在処(ありか)」と題する展示なのでありました。
まずもってフライヤーにある一文に「そうだよなあ、そうなんだよ」と思う。
こんなふうに書かれてあります。
やきものは、いつも私たちの傍に、当たり前に在るものです。「やきものを使う」ことには、無意識的であれ、親しみを覚える人が多いのではないでしょうか。一方で「やきものをみる」ことには、それなりの作法や知見が求められるようで、縁遠く感じることが少なからずあるのかもしれません。
「それなりの作法や知見」、要するに「目」(鑑賞眼)があるかないかを
焼き物を見つめるときに問われているような気がしてしまう。
焼き物に限らずよく好事家だけの世界と思しきものがありますけれど、
「そんなことも知らんの?けっ!」的なところが敷居を高くしているような。
おそらく好事家の方々(もちろん、「けっ!」という人たちばかりではないわけですが)には
それで何も困らない、むしろ下手に印象派絵画のようにやたらに人が集まってきてしまうよりは
よほど静かに鑑賞できてよいてなところはありましょう。
何しろ美術館におしゃべりに来ているような人たちも確かにいますのでね。
ですが、敷居が高いと感じさせることはその世界に触れる人の広がりを制限することにもなる。
となれば、かわいそうなのは焼き物、作品そのものということになりましょうか。
こんな具合に仕上がっているんだから、たくさんの人に見てもらいたいと
思っているでしょうから(と、焼き物の気持ちになって)。
と、また前置きが長いですが、「近頃ようやっといささかの興味が…」と申しましたのは、
「それなりの作法や知見」はまったく措いておいて、
「好きなように見るもんね」という開き直りの賜物であろうと思っているわけでして、
そのような者が見た焼き物の展示の話なのでありますよ。
展示の点数は少ないですが、ざあっと焼き物の歴史をたどる感じ。
始まりは縄文時代 中期に作られた「深鉢形土器」でありました。
国宝にもなっている「火焔型土器」のようなインパクトはありませんけれど、
今から4000~5000年も前ながらこのような実用本位とも思われない造形性を生み出したのには
驚嘆するところでありますなあ。
次いで目をとめたのは(実に唐突に時代を飛ばしますが)鎌倉時代
の「山茶碗」とやら。
どうやら常滑焼のようでありますよ。
縄文土器の装飾が実用本位でなく見える一方で、こちらの茶碗の本来は実用本位だったはず。もちろん美しさにも着目されたことも手伝って、長く使われることになったのでしょう。
欠けてしまったのものを接いでまで使い続けたわけですから。
以前、畠山記念館 で本阿弥光悦作の「赤楽茶碗 銘 雪峯」なるものを見ましたが、
接ぎの部分まで含めて装飾的であるというのは、使い込んだ美しさの延長上にあるようにも
思うところでありますね。
そうした点を冷静に考えてみれば、「民藝
」の考えが出てくるもの自然のなりゆきのような。
上の写真に写っているのはいずれも「民藝運動」との関わりで有名な河井寛次郎の作ですが、「普段使い」と「愛でる感覚」の同居てなことになりますかね。
特に右側手前の「晨砂縞文茶碗」は掌におさめて愛でたくなる姿かたちではありませんか。
それにしても、縄文、鎌倉、大正と来ては飛ばしすぎではないかと思うところですが、
ここで江戸時代、1794年作とされるものをひとつ。
もっとも江戸時代とは言ったものの、英国産なのですけれどね。
スリップウェアという、ヨーロッパに古くからある陶器の類いということですが、
産業革命などによって大量生産品が出回るようになると廃れていってしまったらしい。
これの復興には日本の「民藝運動」に関わりある人たちの存在があった…てなことでも
あるようですが、その素朴は風合い故でありましょうかね。
しかし、この鳥の絵柄の皿が日本の江戸期に作られたのだと思うと、
「それにしちゃあ、ずいぶんとプリミティブな印象ではないかい?」とも。
これをもって「どうだい、日本のは洗練されておろう」と思いかけるも一概にはそうも言えない。
英国は産業革命という波にさらされたわけですが、日本は鎖国のおかげ?でガラパゴス化し、
だからこそ他とは異なる独自文化が花開いたのですから、これは比べても詮無い話。
また、鎖国とは言いながら中国からの技術・文化は相変わらず入ってきて影響していたわけで、
その点でも孤高とまでは言えないでしょうから。
それでも、ざあっと展観して「日本の焼き物は大したものであるな」と(他と比べるとかでなく)
改めて思う機となる展示ではありましたですよ。