昨日のことですがさる講演を聴いておりましたら、じわじわじわと左足の甲に痛みが。
履いている靴に圧迫感が生じてきた…ということは腫れもあるということかと。
実はこの講演会、主催者側として会場設営に携わったりした、つまりは仕事。
午前中に準備のために机やら椅子やらを動かしておりますときに、
見かけによらず重い長机を「一人でいけるだろ」と高をくくったのが間違いの元で、
移動のさなか、見事に長机は転倒、左足の甲の上に降ってきたのですなあ。
当初はさして「あたたた…」ということもなかったものですから、
気にもとめずにいたものの、時間が経つにつれ、じわじわじわと来たようで。
仕事帰りには駅まで歩くことかなわず、タクシーで帰宅という大名旅行をしてしまいましたが、
幸いにして、とにかく冷やすことに専念した結果、ひと晩経って、かなり回復したものの、
思い返して「年寄りの冷や水」であったかと思ったり。
ですが、そんなときにふと思い出したのは彫刻家の平櫛田中 のことでして。
108歳の長命を保った田中は「六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から
わしもこれからこれから」と語ったことが知られていますが、何とも意気軒昂なことで。
と、そんな田中の言葉というのは、も
しかして葛飾北斎 の意気を受け継ぐものだったりするのかなとも。
齢90の臨終に際して、北斎が語った言葉はこんなものであったようですね。
翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし と言吃りて死す
当時すでに一流の絵師として知られていたはずの北斎が、
当人にしてみれば未だ「真正の画工」に到達できていないと思っていたという。
田中にしても、北斎にしても、その志やよし!ではありませんでしょうか。
あやかるというか、そうした気概では行きたいものでもあろうかと。
田中の言う「はなたれこぞう」段階に未だ至っていない者としましては。
と、毎度のごとく前置きが長いことになってますけれど、
なんとはなし、近頃は葛飾北斎がずいぶんとクローズアップされてませんですかね。
先ごろのNHKでも「歴史秘話ヒストリア」で取り上げていたり、
娘の応為を主人公にしたドラマがあったり、ドキュメンタリーなども作られたり。
(全て見たわけではありませんけれど)
そんな気がしていたときに、たまたま近所の図書館で「葛飾北斎の本懐」なる一冊を見かけ、
読んでみたのでありますよ。
美術方面には晩生の入門者であって、しかも西洋美術を入口にし、
日本の方にまで目が向いてきたのはようやっとというところにあるだけに、
もちろん葛飾北斎の名前は知っていても、作品には相当多様なものがあるてなことを知らず、「富嶽三十六景」と「北斎漫画」くらいしか思い浮かばないところでありました。
それだけに難しい本ではなかったものの、予備知識不足の感は否めず。
北斎の画業を全体的に見通す中で、時期によって取り組む作品傾向に
変化があるというあたりはもそっとよく知ってからならば「なるほど」でもありましたろう。
ただ、そんな中でこれは「なるほど」と思ったことが、
例えば「富嶽三十六景」は当時としてはかなり画期的な作品だということなのですなあ。
今でこそその作品は「風景画」として受け止められるわけですが、
当時の浮世絵のカテゴリーには「風景画」というのは無くて、あったのは「名所絵」であったと。
歌川広重 の「名所江戸百景」などは良い例なわけで。
では「富嶽三十六景」はといえば、確かに名所の横綱のような富士を描いていますけれど、
描くのは富士ばかりであちこちの名所紹介とは全く異なる。
さらに富士を望む名所を紹介しているのかといえば、
どこから描いたのかは後の研究者が解き明かさないと分からかったりもしますよね。
つまり、広重に代表されるような「名所絵」の数々(それにはもちろん名作もありますけれど)は
いわば旅行ガイドブックなものであるところながら、「富嶽三十六景」はガイドしてくれない。
目的が違うということになるわけで。
比較されていた例としては、
セザンヌがサント・ヴィクトワール山 を何度も何度も描いたのにも似て、
同じものをどう違えて描くか、また描き方のバリエーションを見出す試みとでもいいましょうか。
こうしたことが(とは、ずいぶんとざっくりとまとめにかかってますが)
北斎の北斎たる由縁なのかもしれませんですね。
そうした意識をもって北斎の作品には向き合ってみようかと思ったりしたのありました。