東京・三宅坂の国立劇場 には何度か足を運んだことがありますけれど、
3月に「通し狂言 伊賀越道中双六 」を見に行った折にようやっと
「ああ、これであるか」とじっくり見入ったのが平櫛田中の作である「鏡獅子」の彫刻。
大劇場のロビーに飾られておりますね。
折しもその頃にTV東京「美の巨人たち」でも取り上げられて(例によって見たのは後日ですが)、
「そうそう、大した迫力だったよなあ」と思ったものですから、
そのうちにまた行ってみるか…と平櫛田中彫刻美術館の再訪を考えたのですな。
東京・小平市にあって自転車圏内の美術館ながらも
ついつい何カ月もそのままにしてしまい…ですが、このほど訪ねてまいりましたですよ。
もちろん「鏡獅子」の本物というか、最終完成品は国立劇場に鎮座しておるわけですが、
ここには高さ58cmの縮小版(国立劇場のは2m)が展示されているのですな。
もっともこちらが縮小版なのではなくして、国立劇場の方が拡大完成版というべきでしょうけれど。
そんな小さめの「鏡獅子」と同時に制作過程を窺い知る試作のいくつか、
そして制作当時にモデルとなった六代目尾上菊五郎と写った写真などもあって、
「鏡獅子」制作に懸けた思いといったものも伝わってくるかのようです。
「美の巨人たち」でも触れられていたですが、
この歌舞伎らしい絢爛たる衣装に包まれた像を彫るために
田中先生はモデルの裸像を試作としてしっかり造りこんでおるのですな。
彫刻を見て、衣服を着た像であれば
その服を着た外観がどれだけリアルに写し取られているか、てな点ばかりを
気にかけてしまうところですけれど、服の中には当然にして肉体があって
着衣が生み出す線というのは当然にして中身があって生ずるものであるということを
今さらながらに思ったりするのでありますよ。
ですから、彫像を見るときにも外見がよくできているというだけでなしに、
表面を模しただけでなく、内側に人の肉体の存在が想像されるかどうかの問題。
よく聞くこととして、彫刻家は例えば材料の木材を見ればその中に完成形が見えていて、
それを掘り出している…てな話がありますけれど、あくまでそれも外観の話。
それだけでもすごいもんだと思うところながら、どうやらそれだけは無いようですなあ。
館内には初期から晩年までさまざまな田中作品が展示されていますので
「鏡獅子」の話ばかりでは申し訳ないのですが、もうひとつ触れるならば
美術館に隣接してあるかつての住まい(今は記念館)の庭におかれた巨大な木材でありますね。
最晩年に至ってまだまだたくさんの作品を生み出せるだけの木材を買い付けたという田中先生。
田中の言葉に「六十、七十、洟垂れ小僧 男盛りは百から百から」というのがありまして、
「四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り…」と言ったという渋沢栄一の
さらに上を行っているあたり、その気概たるや良しではありませんでしょうか。
まあ、田中のように107歳まではとても生きられそうにありませんから、
真似るようなことはできませんけれど、出かけて作品に接すると何となく肖れそうな気にはなる
平櫛田中彫刻美術館なのでありますよ。