ウクライナ
のとある町に独ソ不可侵条約を破棄したナチス・ドイツ
が侵攻を開始。
それまではユダヤ人
も混在する形で暮らしていた町であったものの、
ナチスは容赦なくユダヤ系住民を強制収容所へと狩り立て始めた。
その中には神童の誉れ高い少年ヴァイオリニストと少女ピアニストがおり、
本来ならば問答無用で隔離すべきところを、町に着任したナチス司令官の気まぐれからか、
「完璧にミスのない演奏をすれば、助けてやる」として、演奏の機会が与えられる。
かくして命をつなぐためのヴァイオリン演奏、ピアノ演奏が始まるのであった…。
ざっくりと言うとこんなストーリーでもあろうかと。
ドイツ映画
「命をつなぐバイオリン」(原題は「Wunderkinder」、要するに「神童」)であります。
ナチスドイツによるユダヤ人虐待(虐殺と言うべきながら、とりあえずこの映画の限りにおいて)は
映画で扱われることも多くありますけれど、肝心なのはこれがドイツ映画であることなのですよね。
歴史的に見て第二次世界大戦は連合国VS.枢軸国で争われ、
(戦争そのものがよろしくないということはあるにせよ)枢軸国側に非があるわけですね。
つまり日本であり、イタリアであり、そしてドイツでありという側がよろしくないという。
ですから先に見た「レイルウェイ 運命の旅路
」なんかでも、
第二次大戦中の日本軍人の描かれようというのは「よろしくない」ことを具現してたりするわけですが、
かつての連合国側が描くとなると(ちなみに「レイルウェイ」はオーストラリア・イギリス合作)
描かれた側は横を向いて小さな声で「そこまでしてない…」てなことを呟いてしまったりもしようかと。
ただ、そういうふうな受止め方をしているうちは、
この「命をつなぐバイオリン」のような映画はなかなか生まれてこないような気もしますですね。
つまり、かつての自国の「よろしくなさ」を自国が描くという点で。
全部が全部ではないにしても、日本の戦争映画、特に太平洋戦争を扱っている映画には
家族が、恋人どうしが戦争で引き裂かれて悲しい(嗚咽…)みたいな作りが多いような気がします。
それはそれでもちろん戦争が起こす悲劇ですし、
繰り返してはいけないことの要素の一つだとは思うのですけれど、
どうも一般化しているというか、ひとごと化しているというか。
確かに戦争の普遍的な「よろしくなさ」はそれで伝わるかもしれませんが、
それは歴史を語ることにはなっていないようにも思えるわけです。
自国の過去に冷静に目を向けた上で、描き出すにあたっては客観視しなくてはいけない。
それが日本人にはできにくいというか、できていないというか。
そうしたできていないタイプの人が何故かしら政府機能に関わる部分に多く集まる不思議を
どう考えたらいいのだろうと思ったりしますですよ。
結局のところは、先に「レイルウェイ 運命の旅路」を見たときに思った
和解の難しさというのも同根の話なのだろうなあとも。
日本人の美質には「おもてなし」以上に「思いやり」があったように思うのですけれど…。
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