それにしても、あのおばあちゃん はいつ頃からヴォルムスにおられるのでしょうか。


ドイツで生まれ育ったと考えられないことはありませんけれど、
「もしかしてアフガニスタンから来た?」と思しき人物に近付いて声を掛けるということからして
どのくらい経っているかはともかく、おそらくは大人になってからやってきたのでしょう。
やはり難民としてドイツに来たのでありましょうか…。


昔々、自らの国を失ったユダヤ人は四散して行くことになりましたが、
ローマ帝国がキリスト教 に宗旨替えするに及んで、居づらくなっていったのでしょうか、
辺境へと移り住んだ人たちもいたわけですね。


ライン川 の向こうはローマの威光の枠外であったという時代のラインラントは
まさに辺境の地であって、そうしたことからもユダヤ人が集まってきたとも考えられるような。


先にも触れたとおりに、神聖ローマ帝国の時代、ヴォルムスは帝国自由都市となりますけれど、
聖俗の領主に属さないということは、ある程度自立した市民で町は構成されていたろう、
そして彼らの生業は商業に依存するところがあったではと想像されるところではなかろうかと。


農耕牧畜あるいは狩猟、そして手工業的な生産物の自給自足だけでは
聖俗領主から独立した帝国自由都市の金看板を獲得することも維持していくことも

できないでしょうから。


どういう天分なのか、ユダヤ人の商才は歴史の中でもあれこれ見られるところでありまして、
そうした才覚は商業都市に欠かせない要素としてユダヤ人を見るてなこともあったろうと

思うのですね。


何やら藪から棒の話のようでもありますけれど、次に訪ねた場所に関係がありまして。
先のおばあちゃんに声を掛けられた緑道のベンチにそのまま座っていては、
「また、どこ人に間違われる分かったのものではない」と思ったわけではありませんけれど、
市街図を見ていてちょっとの時間(美術館の開館時間まで)、

覗いてくるかという場所を発見して移動開始。
その出向いた先が「Jüdischer Friedhof(ユダヤ人墓地)」だったのでありますよ。


ヴォルムスのユダヤ人墓地


塀に囲われた一角の鉄格子門から入ると、見事に墓石だらけの場所。
中には崩れてしまったものなのか、壁にまで埋め込まれた墓標もありました。

全部でおよそ2500もあるそうです。


壁に埋め込まれた墓標


で、これがユダヤ人墓地であるというのは、近付いて見れば一目瞭然。
全くもって読めません。


ヘブライ語?の墓碑銘


ですがツーリスト・インフォメーションでもらった資料によりますと、
いちばん古いもので1058年だか59年だかと刻まれているのがあるそうですから、
やはり相当な年代ものなのでありましょうね。


ヴォルムス大聖堂の程近くながら…


仰ぎ見ればヴォルムス大聖堂 に程近い場所ながら、
宗旨違いは明らかですから同じ場所に葬るわけにもいかず、
ユダヤ人のための墓地が(想像するに市壁のすぐ外に)築かれたのではないですかね。


中世にあってペストの流行は天罰とも考えられて、
これはイエスを見殺しにしたユダヤ教徒のせいであるというようなことが
まことしやかに喧伝されて目の敵にされる場面もあったとか。


そこでラインラントのあたりの都市でもユダヤ人の追放が
外圧として求められることがあったようですが、墓地を見渡す限り、
新しいもの(そうしたものはアルファベットで記載もされている)では
20世紀初頭の年号が刻まれているところからすると、
ヴォルムスでは共存の歴史をたどったのかもしれないですね。


上の方に書いたように、商業都市としてユダヤ人を排除できない理由がやはりあったのかも。
この点では(いささか話題先取りになりますが)フランクフルトなどは顕著な例でして。


フランクフルトは歴史上最初期のユダヤ人ゲットーができたところ…と書きますと、
ネガティブな印象にもなりましょうけれど、町として完全にユダヤ人の商才を排除できないがために
追放するのではなくして、近くに集住させる隔離場所を作ったというのが実際であったようす。
ご存知のように、フランクフルトはロスチャイルド(ロートシルト)家発祥の地ですから。


と、話がすっかりフランクフルトしてしまいましたので、この辺でひと区切り。
予想としてはもう開館しただろうと時間になって、予定の美術館へと向かったのでありますよ。


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