…心理試験というものは、必ずしも、書物に書いてある通り、一定の刺戟語を使い、一定の機械を用意しなければできないものではなくて、いま僕が実験してお眼にかけたように、ごく日常的な会話によってでも充分やれるということです。昔からの名判官は、たとえば大岡越前守というような人は、皆自分でも気づかないで、最近の心理学が発明した方法をちゃんと応用していたのですよ。

これは先に読んだ江戸川乱歩 「心理試験」の末尾にある明智小五郎のひと言でして、
やはり明智が大岡越前守に言及するのは「D坂の殺人事件」にも出てくるのですね。


日本独自の探偵小説の世界を開くにあたって、

江戸川乱歩にしてみれば、名奉行として名高い大岡越前なども、

すでにして探偵小説の謎解きに使われるような手法でもって
お裁きにけりをつけていた…てなことでもあるようです。


大岡越前の名裁きとしては「三方一両損」のような、
犯罪解決というよりは仲裁の形が良く知られているやに思いますけれど、
大岡裁きの数々を後世に伝える「大岡政談」の中には乱歩が感心するような
あっと驚くどんでん返し的な解決が含まれているのかもしれませんですね。


ただ大岡越前守忠相が名奉行として語り継がれる中で、
あれもこれも(本当は別人の裁きも創作も?)大岡裁きに紛れ込まされてもいるようで、
「大岡政談」=大岡越前の名裁きと考えるのはどうやら適切でないようす。


先に見た映画「丹下左膳」 にも

大岡越前守忠相は(悪い意味でなく)裏に廻って糸を引くてな存在でしっかり登場してましたが、

こうしたことも名奉行としての語り伝えあらばこそなのでしょう。


とはいえ、あれこれのお手柄の数々が大岡越前に結び付けられることからすれば、
やっぱり一廉の人物ではあったろうと思うところだものですから、
この際読んでみることにしたのが、吉川英治 「大岡越前」でありました。


大岡越前 (吉川英治歴史時代文庫)/吉川 英治


ただ、ここでの話はむしろ「大岡越前誕生譚」ともいうべきものではないかと。
部屋住みであった若い頃、五代将軍徳川綱吉 治下で生類憐みとはいうものの、

その実、人の命が粗末に扱われた時代にうらぶれた人心の中を荒んだ姿で

徘徊していた市十郎(後の忠相)が描かれているのですね。


心は揺れながらも、悪い仲間にどんどんどんどん流されていっていた市十郎は
ふと施粥の会を主宰する旅僧と出会い、「溺れる者は藁をも…」の土壇場から
この僧に従い行くことで一念発起、幕府旗本として無心に働き、
伊勢山田奉行から江戸南町奉行へと転進して江戸に戻ってくるという。


ですが数々のフィルム・ノワール に見るように、かつての悪い仲間が放っておくはずもない。
一緒に悪さをした人間が今は奉行としているなど、ちゃんちゃらおかしいというわけで。


だんだんと忠相の旧悪が巷間噂されるようになってくると、
「奉行は当然に隠蔽を図るに違いない」という見方が出てくるのは
先日まで見ていた土曜ドラマ「64」でも触れられていた警察の隠蔽体質というものが
今に始まる話ではないと想像させるところでありましょうか。


しかしながら、忠相は身を捨てて巨悪を断つ覚悟で臨む心構えがすでにできており、
人心が荒び、悪が蔓延る世間にあってその根元に切り込むとなれば、
かつての悪い仲間などは「ちいせえ、ちいせえ」、
むしろ世情に流された憐れむべき小者でしかないという。


されば、忠相、どこへどのように切り込んで巨悪を断つのであるか。
ま、このあたり、「そうくるよね」と思うように落ち着いてはいくのですけれど。


とまれ、この話は作者のフィクションなのでしょうなあ。

ですから「そも大岡越前とはどのような人物であったのか」を探るよすがにはしにくいところかと。


それでも、話としては十分に面白かったと思いますし、

どろどろの過去を引きずっているからこそ名奉行たる大岡越前が誕生した…

と受け止めることは無茶な話とはいえないでしょうし。


そんな吉川版大岡越前ですけれど、

法の番人として面目躍如たるものがあるなと思われますのが、
8代将軍吉宗を前にして語るこうした言葉ではなかろうかと。

越前が尊ぶのはそこです。法とは、すでに、いささかの“私”なきことです。たとえ、その大法を初めに、制定された御宗家であろうと、天下諸民を、律する法として生きた以上、もはや、将軍家の御意志でも、ゆめ、左右されるものでもなく、また、お口出しすべきものでもない。――その、絶対なる尊厳を、上みずから冒すとすれば、上も、法の賊です。世を紊し、秩序をやぶり、ひいては、将軍家みずから将軍家を破るものです。

もはや戦国時代の立身出世が侍にとっても過去のものなった時代に、
2千石に満たない旗本の家から出て、最後には三河・西大平1万石の大名に成り果せたという

出世物語の主人公は、さぞや庶民の記憶に残る人物であったことでしょう。


本書には描かれていない部分ながら、将軍吉宗に抜擢されて南町奉行となった後、
将軍ともども力を合わせて江戸の町の行政・治安を改革していった人物が

他でもない大岡忠相であったことも忘れてはいけませんけれど、
そういう人物であれば、敢えて主君に対して言ったかもしれない先ほどのひとこと。


どこぞの政治家に聞かせてやりたいと思う内容ではないかと思いますが、
こういう御仁が出にくい昨今というべきではありましょうかね…。