偶然にせよ、ひょんな出会いもあるもので…と、人との出会いではありませんで、

「音の文化」展 を見に行った中野区立歴史民俗資料館で

常設展示コーナーにあった展示物のことでありますよ。


台座に載せられて、目線の高さまで持ち上がった形でその代物はありました。

要するに「駕籠」(前後で人が担ぐあれ)なんですが、

本来客の乗る部分が竹格子で囲ってありますから、

あたかも罪人が乗せられるのか…てなふうでもあろうかと。


ですが、コンパクトながら罪人を乗せるにはもっと雑な設えだろう…てなことを

あれこれ思っておりましたですが、実のところは「犬」を運ぶ駕籠だったのですね。


先に訪ねた駿府城 では、

宇治のお茶を将軍家に献上するために茶壺を駕籠に載せて運ぶ御茶壺道中で

使ったという茶壺駕籠が展示されていて「たいそうな!」と思いましたですが、

これまた「犬」を運ぶにしては「たいそうな!」というもの。


なんでもかつての中野には「御囲御用屋敷」という野犬収容施設があったようで、

その施設まで「お犬さま」は駕籠に揺られてご到着と相なる、その駕籠ですけれど、

こうなるとご想像の通り、生類憐れみの令で人よりも動物の愛護を優先した犬公方こと

徳川五代将軍綱吉の時代でありますね。


で、これが何だってひょんな巡り合わせかと言えば、

展示を見たときに現在進行形で読みつつあった「儒学殺人事件」という本、

副題に「堀田正俊と徳川綱吉」とあるとおりの内容だったものですから。

このほど全編、読み終えたものですから、ちと枕に使った…という次第でありますよ。


儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉/講談社


しかしまあ、この「儒学殺人事件」というタイトルにはすっかり騙されてしまいましたですねえ。

史実をベースにするものの、上にはたっぷり虚構を盛ってある歴史ミステリーかと

思いこんでしまったですが、どうしてどうして史料にたんとあたった歴史的解釈の展開、

面白かったですけどね。


江戸城内での刃傷沙汰といえば、とにもかくにも浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった、

後に赤穂浪士の討ち入りにつながる事件が有名ですけれど、

「殿中でござる」にも関わらずの事件はどうやらこればかりではなかったようで。


中でも幕府としての大事件ということで考えるならば、

現職の大老が殿中で襲われ、その時受けた傷がもとで亡くなってしまうという事件の方が

よほど大騒ぎされる(記憶にも記録にも残されて伝わる)はずなのに、そうなっていない。


まあ、大老斬殺と言えば幕末の井伊直弼が斬られた桜田門外の変が超有名で、

あれも大事件ですけれど、城内ではないわけですね。


とまれ、このときの被害者というのが五代将軍綱吉に仕えた大老の堀田正俊、

もはやよほどの日本史通でもないとピンとこないのではなかろうかと。


で、この堀田正俊ですが、その後の状況を鑑みるに、

とにかく大老の権勢を笠に来て、専横を極め、私腹を肥やし、女にもだらしがなく…と

悪口雑言の限りを浴びせかけられ、堀田家はすっかり干されてしまうのですね。

幕末になって堀田政睦(まさよし)が老中首座に就いて、ようやく復権かという具合。


さほどの悪人であったとすれば、「天誅」てなことを叫んで斬りかかる輩が出ても詮無いことと

当時もいっときは噂で喧しくもすぐに沈静化したようにも思われてくるところです。


ところがところが、堀田正俊という御仁は果たしてどのような人物であったかと、

史料を掘り下げていくと愚直なまでに将軍を立てる臣下であって、

その立てようというのも「邦の本は民なり」を第一に将軍は「仁政」を行うのが務め、

そして家臣たるもの、将軍の舵取りに疑念が生ずれば率直に諫言申し上げるのが務めと

考えるような御仁であったことが分かってくるのだとか。


時の将軍綱吉は、先にも触れた「生類憐れみの令」が

実は世界に類を見ない博愛に満ちた御触れとの評価されることなどから

「明君(名君)」との呼び声もあるらしいのですけれど、

犬を邪険に扱って死罪、鳥を撃っても死罪、鯉をとっても死罪…と人命軽視と裏表では

いったいどういう評価なのかと。


とにもかくにも法令でがちがちに縛って言うことをきかせる、

それでこそ平穏な社会ができる…と、本気で思っていたのが綱吉だったらしい。

裏を返せば、恐怖政治以外に何ものでもないような気がしますが。


そして、将軍の代替わりが進む中で幕政も確固としたものとなり、

基本的には政治を幕閣に委ねる形で進んでいたところが

何でも自分が噛まなければ気がすまない性格でもあったらしく、

老中の会議なんぞにも自分の身近においた側用人を通じて意見を差しはさんでくる始末。

ここから側用人なるところに新たな権力が生まれたりもするわけですね。


こうした状況にある綱吉政権にあって、実のところは大老として最上位にいた堀田正俊、

諫言をせでいられようかということになりますね。


将軍にとってはこの上なく煙たい人物なわけですが、

先代の家綱(綱吉の兄)時代からの重臣をおいそれと遠ざけることもできず、

ぽつりと「誰ぞかいてもうてくれんかなぁ」てなぐあいにひとりごちたと思し召せ。


側用人を通じて誰かしらに内意が告げられ、大老の殺傷に及ぶ。

後はあれこれの手立てを講じて「堀田は、実はこんな悪いやつやったんや」と触れまれる。

大老殺しの黒幕は将軍綱吉ではないのか…と、ようやくミステリーっぽくなってきました。


ですが、あくまで学術的に?言いますと、

両者の対立の背景には儒学解釈に関する極端な違いがあった…ということで、

タイトルも「儒学殺人事件」となるわけです。


そも儒学のなんたるかを詳しく理解していない者としては「ほぉ~」とか「へえ~」とか思い、

(「邦の本は民」なんつうところを今の政治家は忘れとるんだろうか…てなことも)

多少の知識にはつながったものの、ここで披歴するほどのものではありませんので、

思い切りかいつまんで行ってしまうと、「仁政」の施し方の問題でもあろうかと。


堀田正俊の理解は全く文字通りで「民の安寧のために政治がある」と思ってますが、

綱吉の方は「民をしばりつけてでも安寧を生み出すのが政治である」と思っていたような。


一冊の本を読んだだけで、「そうだ、そうだ。綱吉、とんでもない!」というのは

拙速だとも思いますけれど、差し当たりどう考えても綱吉の分が悪い。

堀田正俊のきちんとした事績がもそっと紹介されてもいいような、

そんな気がしてしまうところでありますよ。