元を辿ればいずれも源氏の末裔ながら、
隣接する足利荘
と新田荘とを本拠にする足利氏と新田氏はあまり仲が良くないごようす。
結局のところ、南北朝に分かれて足利尊氏
と新田義貞が争いを繰り返したのも
この辺りのライバル関係が根っこのところにあるような気がしないでもないですね。
仲の悪いお隣さんではありませんが、こうした対抗意識というか、ライバル関係というか、
まさしくイギリスとフランスの間にも歴史上根深い愛憎が展開してきたような。
それだけにイギリスもフランスも、ひいてはその首都たるロンドンもパリも
お互いに「おらが一番」の自意識をもって、相手のことを「ケッ!」とか思っているようにも
思われるところではなかろうかと。
そんな印象のところへ持ってきて
「フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ」とは何とも目を奪うタイトルではありませんか。
ただし、原題は「Tales of Two cities Paris, London and the birth of the Modern city」というもの。
何ともキャッチーな邦題を考え付いたものですなあ。
ざっくり言ってしまえば、いかにもおフランスな華の都パリ
も
イギリス産業革命の光も影も背負った霧の都ロンドン
もそれぞれに個性的であるも、
その個性と思われるものが相互の影響なしには生まれてこなかった…という内容。
やはり「ほお~」とは思いましたですよ。
そんな「ほお~」の部分を断片的に触れていきますけれど、ひとつはファッションのお話。
なるほどフランス、パリならばファッションの話題には事欠かないであろう反面、
イギリスのファッションとなると、思い浮かぶのは「サヴィル・ロー=背広」みたいな連想の
紳士服的な印象といいますか。
華やかで煌びやかなパリ、質実剛健のロンドンは
互いのファッションを冷ややかに見ていたのでは想像するに、
実のところはパリの最新モードをまとったマネキン人形がロンドンへと常に送り出されていたのだそうな。
始まったのはなんと1396年、途中に(断続的であったにせよ)百年戦争といった
明らかに国どうしとしては敵対関係にあるときでもマネキンの行き来は続けられていたのだそうで。
それだけにイギリス側から注がれるフランス・ファッションへの視線は
戦場以上に熱かったともいえましょうか。
一方で「これは何といってもフランス、パリならではのものであろう」と思われるものが、
実はイギリスの影響なしには出来上がらなかったてな側面もあるようでして、
ひとつの例が「フレンチカンカン」という踊りだというのですね。
オッフェンバック「天国と地獄」のメロディー(日本では小学校の運動会などでも有名ですが)に乗せて、
女性のライン・ダンサーがスカートを持ち上げてひらひらさせたり、脚を高く上げたりする、あれです。
パリ観光で多くの人がキャバレー「ムーランルージュ」あたりで鑑賞しつつ
「パリだねえ」なんつうふうに思ったりするところではなかろうかと。
ですが、元からフランスにあった「カンカン」という踊りはラインダンスでもなければ、
スカートをひらひらさせるものでもなかったそうなのでありますよ。
18世紀にパリからダンサーがやってきて、ロンドンで紹介されたときには
脚を高く上げたりすること自体が「卑猥」「淫ら」「不道徳」といったふうに報じられたりしたそうで、
その挿絵を見る限り、ダンサーがはいているのは半ズボン状の衣装なのですよね。
(本のカバー、中央右手に小さく見えているのが、その挿絵です)
では、スカートひらひらはどこから来たか。
どうやら出所はイギリスのダンサー、ケイト・ヴォーンによるスカート・ダンスというものであったらしい。
とはいえ、スカート・ダンスは必ずしもカンカンのように賑々しいものではなく、
優雅に踊る際にスカートの裾がひらっとしかかるものの、慌ててそれをカバーするようなしぐさが
男性客の心をさざなみ立たせる類いのものであったとか。
で、このケイトがパリへ引越し公演をしたところ、公演そのものは成功しなかったものの、
スカートひらりの演出がパリのダンサーの目に留まり、カンカンに取り入れられることになったそうな。
ロートレックが1891年に描いた「ムーラン・ルージュ ラ・グーリュ」で見て取れるのは、
後にフランスカンカンとして完成していく踊りの萌芽でもありましょうか。
萌芽というのは、当時のパリではダンサーと観客とは
同じフロア(観客自らも時にダンスに興じたりする)いるのであって、
ステージで専ら見せる形態になっていないですし、ライン・ダンスにもなっていないところ。
実は見せる形態になっていくのも、
ロンドンのミュージック・ホールの体裁を真似て出来上がっていき、
やがてステージ上のライン・ダンス=フレンチカンカンということになっていったような。
同じくロートレックでも1896年頃の「エグランティーヌ嬢一座」となると、
今思い描くフレンチカンカンらしいようすになっているではありませんか。
ロートレックの絵というか、ポスターは何度も目にしてますけれど、
こうした経緯を意識したことはなかったですなあ。
と、スカートひらひらの話が長くなったので、あともう一つだけ、
こんどはフランスからイギリスへのお話。
推理小説の本場とはやはりイギリスであろうかと思うところですけれど、
イギリスのミステリーの先鞭、そしてロンドンとは切っても切り離せない主人公となれば、
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ 。
ですが、コナン・ドイルがホームズものを書き始めるにあたって経緯が
本書ではこんなふうに紹介されていたのでありますよ。
スコットランド生まれの医師アーサー・コナン・ドイルは、ガボリオの信奉者のひとりである。ドイルはポーツマスで診療所を開くが、診療所にはいつも閑古鳥が鳴いていた。1884年初め、巷ではフランスの探偵小説がベストセラーもなっていた。「イギリス人は、イギリスのルコックを求めている」と考えたドイルは、シャーロック・ホームズが活躍する小説を執筆した。
フランスの作家エミール・ガボリオが書いた、探偵ルコックを主人公とする小説。
これがイギリスで大流行していた折、ドイルは柳の下に二匹目のどじょうを探したわけですね。
そして、イギリスにとっては我らが首都ロンドンで大活躍するシャーロック・ホームズの登場に
大喝采を送ることに。
そればかりか、その後のミステリーの系譜を見る限り、
イギリスはすっかりフランスのお株を奪ってしまったのではないでしょうかね。
もしかすると、フランスが求めたのはむしろ冒険的要素の方だったのかも。
例えばモーリス・ルブラン描くアルセーヌ・ルパンの活躍とか(初出は1905年)。
とまあ、フランスもイギリスも、ひいてはパリもロンドンも
互いに常に「気になる隣の席」状態ながら、素直になれないでいるままに、
実のところは相互に影響しあって現在に至るわけですなあ。
本の中から引き合いに出したのはほんの一部分で、
他にもあれこれ興味深い記述がありましたけれど、
本当ならばもっともっと面白い本になってよかったのではとも。
もしお読みになる方がおいでとしましたら、
本のまとまりから考えると、その辺り、予め割り引いて手にとってくださいまし。


