ウィリアム・アダムス やヤン・ヨーステン を乗せてきたリーフデ号には
大砲などの武器が積載されていて、これを接収した徳川家康は早速に
関ヶ原の戦いで大砲を利用した…てなことは前に触れましたですが、
幕末の日本で造られた大砲がフランスはパリ
のアンヴァリッド(廃兵院)に保存されているという、
逆の伝わり方といいますか、そんなこともあるそうなのでありますよ。
両親のところへ顔を出しに行こうとした折、
懐かしさも少々あってひとつ前の東陽町という駅で下車、
そこからかつては都電の専用軌道だったところにできた遊歩道を歩いて行ってみるか、
久しぶりに…と思ったわけです。
で、その遊歩道の道すがら、これまでにも何度となく通り過ぎてはいるものの、
この時に限って「何、これ?」というものに出くわしたのですね。
右側手前に見えるもの、ベンチにしては座りにくそうですので、
公園にはよくある健康増進のための器具かとも思ったですが、
近づいてみれば大砲のレプリカであるという。
で、これの本物がアンヴァリッドに保存されているということでありました。
しかしまあ、何故こんなところに?と思うわけでありますが、
解説にあたってみると事情はこのようなことにもなろうかと。
昔の地図である「江戸切絵図」によれば、
この辺り(東京都江東区南砂2-3付近)は長州藩主松平大膳大夫の屋敷であったそうな。
「長州と言えば、毛利なんでないの?」と思うのはどうやら素人の浅はかさであったようで、
大藩には松平姓の名乗りを許されていたところもあるようなのでありますよ。
ま、結局のところは毛利家の江戸屋敷があったわけですね。
もっとも、場所柄からして屋敷と言っても抱屋敷というものでしょうかね。
以前、明治大学博物館
で7~8万石クラスの大名である内藤家に関する展示を見た折、
その内藤家の上屋敷は虎ノ門、下屋敷が六本木で渋谷に抱屋敷を持っていたとありました。
幕府から拝領する屋敷だけでは手狭であるため、郊外に自前で調達したのが抱き屋敷。
大藩なれば当然に持っていたことでしょう。
時に嘉永六年と言いますから、1853年、まさに黒船対策でありますね。
「長州藩では…三浦半島の砲台三浦半島に備えつける大砲を鋳造するため、
鋳砲家を江戸へ呼び寄せました」と解説板にはあって、
あたかも長州藩の判断で大砲鋳造を始めたかのようですけれど、
おそらくは幕命なのでありましょう。
で、佐久間象山の指導を得て、この屋敷内で大砲造りを始めた…ということで、
大砲モニュメントがここに置かれている理由は判明いたしました。
ですが、その大砲がパリにあるのは何故?ということに関して引き続き。
言うまでもなく長州藩は尊王攘夷の急先鋒でしたけれど、
せっかく造った大砲を三浦半島に置いておくだけではもったいないと思ったか、
この大砲を下関に持っていってしまうのですね(幕府の許可はあったのでしょうか…)。
幕府の側は「もはや開国」と舵を切りますが、
承服できない長州藩は外国船に対して関門海峡を封鎖、
通過しようとする船に砲撃を浴びせかけるのですね。
これに対して「黙ってはおれん」と英米仏蘭の四国艦隊が下関を砲撃、
上陸した上で砲台を陥落させてしまう。元治元年(1864年)のことであります。
この時に陥落させられた砲台に据え付けてあった大砲がフランス軍船により波濤万里、
海を越えて最終的にはパリのアンヴァリッドに収まった…のだそうで。
大砲には毛利家の紋章が付いていることから、それと確認できるようです。
ずいぶんと乱暴なことをしたものだ…と思ったりするところですけれど、
ふと考えてみると、この長州藩が大きく関わって倒幕が進み、
明治政府では長州の人材が数多の活躍をするわけでありますね。
(事ごとの評価にはいろいろあるものと思いますが)
でもって明治政府というと、
列強に追いつき追い越せの中では積極的に洋化政策が進められ、
鹿鳴館外交を展開し…となるわけですが、
「尊王攘夷の急先鋒」からの転換は難しくなかったんですかね。
中には洋行によって一気に目からウロコが落ちた…てなケースもありましょうけれど、
そう簡単に行き渡ろうはずもなく。
幕末「にも」疎い者としては、そんなことも気になったりするわけですが、
ま、この辺りのことは後に探究の機を探ることにいたしましょう。