差し当たりの歩き出しは神田駅から。
やがては銀座方面へと繋がる中央通りを南に下っていきますと、

まず発見できるのは「石町時の鐘 鐘撞堂跡」という解説板でありました。


石町時の鐘 鐘撞堂跡@日本橋室町


何でも江戸市中に時刻を知らせるための鐘撞堂が家康時代からここにあったとのこと。

何度も火事にあったようですけれど、宝永八年(1711年)に作られたとされる「時の鐘」は

小伝馬町の方の公園で見ることができるそうな。


ここで小伝馬町の方まで足を延ばすと吉田松陰っぽい話になっていってしまいますので、

今回はそっち系ではなく、川柳で「石町の鐘はオランダまで聞こえ」と歌われたオランダ方向へ

向かいます(「オランダ」の正体はすぐに判明しますですよ)。

と、「鐘撞堂跡」の解説板から右手に離れること3~4m、もう一枚の解説板が。


夜半亭 与謝蕪村居住地跡@日本橋室町


夜半亭と呼ばれた与謝蕪村の住いがあったところらしいですが、

なんせ江戸市中に鳴り響く鐘のそばとあっては住めたもんではないような気も。

ところが、蕪村にとっては味わい深く響いたのでもありましょうかね。

涼しさや鐘をはなるる鐘の声  蕪村

と、しばし歩を進めてたどりくつくのは先程の「オランダ」の正体ということに。

解説板にあるとおり、「長崎屋」(サンバードではない…)のあった場所であります。


長崎屋跡@日本橋室町


三代将軍徳川家光 によって鎖国となった後も、

オランダだけは長崎の出島を通じて交易が許されておりましたですが、
大名の参勤交代よろしく年に一度は商館長が江戸に出向いてくるよう義務付けられておったそうな。


出府したオランダ商館長が2~3週間江戸に滞在する際、定宿としたのがこの「長崎屋」。
代々のオランダ商館長にはいろんな人がいたでしょうから、

一人ひとりの知識のほども該博なのかどうか定まったものではないながら、
とにもかくにも西洋の話が聞けるとあって、詰めかける人たちがいたという。


先日ぶらりとした築地 で「蘭学の泉ここに」という碑を見かけたですが、
この日本橋室町界隈もまた、蘭学伝播の地になっていたのでありましょう。


で、もそっと下ってお江戸日本橋が間近いあたりでひょいと左折をして奥へ進んでみますと、
「三浦按針屋敷跡」との史蹟碑がビルの狭間に辛うじて場所を与えられたふうに建てられておりました。


三浦按針屋敷跡@日本橋室町


先に「さむらいウィリアム 」読んだことから、どれどれと見に来たお目当てのひとつはこれでしたが、

しかしまあ、あたりには面影など欠片もありませんですねえ、当然と言えば当然ですが…。


2015年の按針通り


日本橋を越してさらに南下していきますと、地名は中央区八重洲と変わります。
ご存知の方も多いとは思いますが、八重洲の地名の元は人物名でありまして、
それがオランダ人のヤン・ヨーステン。


ウィリアム・アダムスと同じくリーフデ号に乗って日本に漂着した一人で、
もっぱら東南アジアと日本との交易に尽くした人ということでありますよ。


ウィリアム・アダムスは三浦按針と日本名を残しましたけれど、
ヤン・ヨーステンの方は与えられた屋敷のあった辺りに地名を残したわけですね。
ヤン・ヨーステンが「やよす」となり、やがて「やえす」、そして「八重洲」の字が当てられたと。


ヤン・ヨーステン記念碑@八重洲


この記念碑は東京駅八重洲口からまっすぐ東に向かう道との中央通りの交差点、

その中州状のところにあったのですけれど、左側に傘が見えておりましょう。

どうやら碑との間、こちらからは陰になっている窪みにお住まいの方がおいでのようで。


それだけにこれ以上近付くこともままならず…だったですが、

ヤン・ヨーステンが苦難の漂流の末に日本にたどり着いて、第二の人生を送ったことに擬えれば、

今はここにお住まいなるも、第二の人生に踏み出して行けることを願わずにはおられんというか…。


ところで、東京駅は向こう側(西側)が丸の内口、こちら側(東側)が八重洲口と
地名を分ける分岐点は東京駅…と思っていたですが、どうやらそうではないようで。


東京駅八重洲口(東側)の目の前を、現在は外堀通りが通ってますけれど、
その名のとおりに元は江戸城の外堀があったところで、
堀の向こう側(東京駅舎も含めた西側)が「丸の内」となるわけです。
名残として東京駅八重洲口の南側(八重洲ブックセンターの向かい側)あたりは
現在でも丸の内3丁目だったりするのですよね。


というまでのことからすると、
外堀通り(東京駅でなく)こそが丸の内と八重洲を分ける分岐点かと思うところですが、
現在ではそうかもしれないながら、歴史的にはまたしてもそうではないようす。


取り敢えず鍛冶橋のガードを潜って丸の内口側に出て見ますと、
目の前に聳える丸ビルの片隅にこうしたモニュメントが置かれているのでありまして。


リーフデ号モニュメント@丸の内


何とまあ、リーフデ号でありますよ。
どうしてここ丸の内にリーフデ号が?と思うわけですが、
そもそもヤン・ヨーステンが屋敷を与えられたのは丸の内であって、
丸ビルからも程近い和田倉門のあたりなのだとか。


ですから、本来的にヤン・ヨーステンの名前に由来する八重洲も
元をただせば丸の内の一部がそんなふうに呼ばれていたということらしいのですね。


それを後々の区画整理と町名変更なんかの過程で、
外堀通りの東側あたりに八重洲という地名を付けてしまった…。
ですから、先ほど現在の中央区八重洲で見たヤン・ヨーステン記念碑は
歴史的にはおよそ関係のない場所に造られているということになるんでしょうかね。


しかしまあ、東京に住まって何十年、毎度のことながら今回も

知らないことはまだまだたくさんあるものだと気付かされる街歩きでありました。