二度出向いて行って二度とも「展示替えで閉室中」となれば、
「二度あることは三度ある」てなことから構えて足も遠のこうというもの。


ですが、やっぱり一度は見ておきたいと出掛けていった江東区古石場文化センター。
お目当てはそこに併設されている「小津安二郎紹介展示コーナー」でありました。
「二度あることは…」ならぬ「三度目の正直」、今度は見てくることができましたですよ。


小津安二郎紹介展示コーナー@江東区古石場文化センター


世界に知られた映画監督の小津安二郎は1903年、東京は深川の生まれ。
そうした関係で、東京メトロの門前仲町駅、木場駅の中間あたりにある古石場文化センターに
こうした施設が作られてあるのでありましょう。


「世界に知られた」と言いましたけれど、
小津映画の魅力を敢えて例えるならば和食の趣きとでもいいましょうか。


例えば、フランス料理のようにあれこれの食材から作られるソースが味の広がりを見せるのとは
大きく方向性を異にして、素材そのままでいささかぶっきら棒のようでもあり、
また飾り気のないようでいて、実にさりげなく行き届いた感があるという。


その和食はユネスコの無形文化遺産に登録されましたですが、
選定する側の多くは欧米系の人ではなかろうかと思いますと、
あたかも和食のように自国文化の産物とは相当に異なる小津映画に感心するのもまた
おなじ背景なのかもしれませんですね。


で、実にたんたんとした運びの物語は、確かに飾り気ないように思えてしまうわけですけれど、
先に国立近代美術館フィルムセンターで見た「小津安二郎の図像学 」なる展覧会で、
小津監督の実に実に細部へこだわるさまが見てとれたのですね。

そして、このほど訪ねた紹介展示コーナーでも同様のことが窺えたのでありますよ。


フィルムセンターの展示では、室内に掛けられた絵や置かれた壺など、
もっぱら美術工芸品関係への思いが知れるところでありましたですが、
ここで見られたのはさらにもそっと細かいところ。


例えば映画「彼岸花」のラーメン屋のシーンで使われるラーメン丼。
砥部焼の工房で監督自ら、現存する型紙の中から

「映画に近い」デザインと思われるものを選び出し、制作してもらったということなんですね。


さらには映画「お早よう」では卓上に置くキノエネ醤油の醤油差しまでも、
新しくデザインさせたとなると、そのこだわりたるや相当なものではなかろうかと。


湯呑みなんかも当然に大きな関心事であったろうと思われますが、
これには小津愛用の品を映画の中で使ったりもしているそうな。


展示にはそうした遺愛の品として、湯呑みや徳利などもありましたけれど、
確かに(刷り込み効果もありましょうが)小津が気に入っていただけの趣きが感じられるような。


普段、美術館でもあんまり工芸品をじっくり眺める方でもないものが言うのですから、
目利きの人が見ると(決して高価ではないかもですが)それなりの品と映るやもしれません。


てな具合にまたも「ほお~」と思って見て来たものですから、
ここはひとつ何か小津作品を…と、「小早川家の秋」を見てみることに。
昨秋に古石場文化センターでも同作品の上映会があったらしく、
当日配付されたらしい解説も入手できましたし。


小早川家の秋 [DVD]/中村鴈治郎,原節子,司葉子


ということで早速見てみるわけですが、まずもってこの映画のタイトルが
「こはやがわけのあき」であって、「こばやかわ」ではないのですね。
漢字 の読みというのは難しいものです。


また、一見した印象として「何か違う…」と思いましたのは、
いつもの松竹ではなく東宝で撮った作品だからなのでしょう。
役者さん方も東宝専属の、例えば森繁久彌が登場してきたりするという。


この映画が公開された1961年当時、
社長シリーズとか駅前シリーズとか、森繁主演作品がばんばん作られていた時期でもあり、
この人の存在感はパッと見でも相当なインパクトがあるだけに、
なるほどこのときの役柄は端役にも近いところながら、
明らかにカラーが異なるふうに思えたものでありますよ。


逆に最後の方になってこれまた端役で笠智衆が出て来るんですが、
こちらの馴染み方はすごい。
映画のトーンと台詞回しとが調和しているのでしょうね、きっと。


造り酒屋の大旦那(中村鴈治郎、つい先ごろ四代目襲名がありましたが、ここでは二代目鴈治郎)、
隠居して悠々自適の日々を過ごす中、やけにどこかへ出かけていくと思えば、
昔馴染みの女性の元へとせっせと通っていたことが判明。


娘(新珠三千代)からは「亡くなったお母さんをあれほど泣かせたのに…」的な責め言葉を
たっぷり投げつけられたりして、こりゃあ「阿修羅のごとく」のような展開かと思うと、
やっぱり至って淡々と進んでいくんですなあ。


そして、改めて思うところは、ストーリー展開からすれば必ずしも必要ではないのかもしれない、
そんな情景描写(家の片隅が何の音や声を伴わずに映し出されていたり…)が差し挟まれている。


この間(ま)がおそらく、そう誰にも出せるようなものではない余韻、味わいを呼ぶのでもありましょう。

…と、多分に分かったようなもの言いではありましたですが、
また折を見て松竹の小津組による作品を見てみようと思うのでありました。