レンタサイクル の機動性を駆使して、
また朝方危ぶまれた雨降りにもその後は煩わされることなく、熊本市内をあちこち廻ったですが、
もう一か所位立ち寄れるなとジェーンズ邸 から向かった先。
目と鼻の先に敷地がありながら、
ちゃんとした門から入場するためにはぐるり迂回をせねばなりませんでしたが、
赴いたのは水前寺成趣園でありました。
細川家の熊本藩主としては初代になる細川忠利が
寛永十三年(1636年)に造らせた「国府の御茶屋」が始まりで、
同時に建立したお寺さんがこの御茶屋も管轄することになったことから
「水前寺の御茶屋」と呼ばれたそうな。
ほぼ現在のような庭園として完成したのは寛文十一年(1671年)で、
その時に「水前寺成趣園」と名付けられたとのことですが、
「成趣園」とは「陶淵明の詩(帰去来辞)に因んで命名されたもの」だそうでありますよ。
今では出水神社(いずみじんじゃ)の神苑ということになっていて、
この出水神社は細川家の歴代藩主が祀っているとされていますけれど、
神社御案内に記された御祭神は、このようになっておりました。
主座 細川藤孝公 細川忠興公 細川忠利公 細川重賢公
配座 歴代肥後藩主及びガラシャ夫人
肥後細川家としては、初代藩主忠利と並んで忠利の祖父(藤孝)と父(忠興)を主座に置き、
歴代藩主はむしろ配座になっていることからすると、両者への思い入れがあったといいますか。
(細川重賢は六代藩主で、宝暦の改革を進め、藩校・時習館
を設立したりしたからですかね)
ちなみに、園内には比較的最近造られたと思しき銅像が2体ありますが、
分けても銅像になっているのは、藤孝と忠利でありました。
細川家は単なる武辺者でなく、風雅を弁え有職故実に詳しい家柄であることをアピールするには
あんまり昔の管領家に遡ったりするよりも細川藤孝を担ぎあげるのは最適だったのかもですね。
銅像の後ろ側には流鏑馬の行われる馬場がある一方で、
池の反対側には能楽堂が配されていたりするのも、同じ考えに基づくものでありましょうか。
さらに極めつけとも言えるのが、
元をたどれば400年ほど前、京都御所の中にあったという「古今伝授の間」が
水前寺成趣園に移築されていること。
「後陽成天皇の皇弟桂宮智仁親王の書院を兼ねた茶室」であった建物ですが、
この庵で細川幽斎(後年の藤孝)が桂宮に「古今和歌集の解説の奥儀」を伝授したところから
「古今伝授の間」と称されておりますね。
見えにくいですが、襖に描かれているのは海北友松の「竹林七賢人」だそうです。
かつては秘伝の奥儀を伝える場所として、
ひっそり奥まった感のある建物だったのではと想像しますが、
今は水前寺成趣園の池水を広く見渡せる場所にあり、
腰かけて景色を眺めているとほのぼのしてきますですよ。
ちと順序が後先になりましたけれど、庭園自体のことに触れますと、
「年中絶えることのない湧水を持つ」桃山式の庭園とのこと。
そして、風景は「東海道五十三次
」を模したと言われておるようですが、
うむむ、富士山 らしきものしか判りませんでしたです…。
と、回遊式庭園をひと回りして、
加藤清正 だけでない細川家の熊本にも思いを馳せたりしたわけですけれど、
翌日は行動を共にする友人の熊本入りを待ちうけるためにホテルに戻らねばならぬ刻限に。
まだまだ廻り足りない気もしておりましたですが、今回はこの辺で。
実のところ、翌日の訪問地(熊本城下を遥かに離れますが)こそがメインでありますからして。