蘆花恒春園 を訪ねようとしたときに

「そう言えば近くではなかったか」と思い付いたのが世田谷文学館でして、
ちょうど没後80年にあたる宮沢賢治に関する企画展が開催中とあって、

立ち寄ってみることにしたのですね。


没後80年 宮沢賢治展@世田谷文学館


のっけに展示されていましたのは、賢治を写した一枚の有名な写真。
コートを着込んで帽子を被り、冬枯れの畑のような場所をうつむき加減に歩いている姿といえば、
思い出していただける方も多かろうと。


でこの写真の姿というのは、

ベートーヴェン が散歩しているらしき姿に似せたポーズであるらしいのですね。


宮沢賢治はポーズをとる? ベートーヴェンは散歩する


賢治の音楽好きは夙に知られたところですけれど、SPレコードのコレクターでもあったらしく、
この没後80年を機に「宮澤賢治の聴いたクラシック」なるものが出版されているという。


宮沢賢治の聴いたクラシック CD2枚付: 宮沢賢治没後80年記念企画 (CDブック)/小学館


文字通りに賢治が聴いたであろう音源を使ったCD付きで、
中には1916年録音の「運命」や1920年録音の「田園」などなどが収録されているのですが、
研究成果を反映してのことでしょうけれど、

収録曲の中ではベートーヴェン比率が高いところからも

写真でポーズを真似してしまうほどにベートーヴェンに興味というか、

敬意を抱いていたのでしょう。


ところで、今回の企画展は賢治作品からのインスピレーションで描かれた、
あるいは実際に絵本の挿絵として使われた作品の展示に多くのスペースを割いていて、
それぞれの物語に関しては、あらすじが解説板に書かれているのですね。


で、改めて賢治作品を「あらすじ」で見ていきますと、
「なりたいんだけれど、なれない」「ほしいんだけど、手に入らない」といった話が
とっても多いのだなということに気付かされます。


最後の方に展示されていた、死を間近に控えた頃に書いた両親への手紙にも
「こんな私ですいません」的なことが書かれていて、
つくづく「自分で自分を満足できない」人だったのだろうと思うところでありますよ。


だから、反面として憧れというものが常にあって
敬愛するベートーヴェンの真似をしちゃったりするのも

その一面だなと最初の展示を振り返って思うところですし、
「なりたいな」「ほしいな」という欲望を実現した姿にも憧れていたのだろうなと。


そういう「あすなろ」的な部分というのは(賢治作品が童話と言われるように)童話になりやすい、
童話として受け止めやすいところでもあったろうと思いますですね。


ただそうした人物の心根というのは
「童話」というものの印象から受ける「ピュア」、「無垢無辜」といったところとは別に
なかなかに複雑なものではなかったかとも思われます。


冒頭の写真に続いて展示された、賢治自身が描いた絵画作品を見るにつけ、

そう思うところではないかと。


「日輪と山」からはムンクがオスロ大学の講堂に描いた「太陽」を想起させられましたけれど、
明るく豊かな色彩が施された見た目を持っていても、

ムンクが全くもって陰から陽に転じたとは思われないわけで、
そうした深層とのギャップといったものを「日輪と山」には思わなくもない。


また「無題(赤玉)」「無題(ケミカルガーデン)」という作品は抽象世界に入ってますし、
絵本で見かければコミカルにも思える「月夜のでんしんばしら」はシュルレアリスム ですよね。


何かしらの業績によって偉人と言われる人が人生のどの部分をとっても偉いわけではない、
童話を書く人のどの部分を切り取ってもピュアであったり無垢無辜であったりするわけではない。
(況や普通の人においてをや、ですかね…)


まあこれは当然のことでもあって、

宮沢賢治に関しても必ずしも今気がついたことばかりではないですが、
再認識することになったなとは思いますですよ。