2011年に国立新美術館で開催されたシュルレアリスム展を見たときには

そも「シュルレアリスムの何たるかは措いといて」好き勝手に作品に没入するようにしてました。

背景としては、やはり「シュルレアリスムは難解だけんね」的な思いがあったからでもありましょうね。


やおらアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」あたりから入ろうとすると

敷居が高いような気がすることにもよるわけですが、

こうしたところには敬して近づかずとしても、シュルレアリスム作品と相対するとき

どうしても「(自分なりにどんな勝手なふうにであっても)解釈してやろう!」と思いがちだったのですね。


ですが、東京・新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の〈遊ぶ〉シュルレアリスム展では、

その解釈の仕方をこれまでは自ら難しくしてしまっていたのだなと感じたのでして、

そういう点ではかなり画期的な印象を残す展覧会でありました。


josh's journal


シュルレアリスムを語る際には、その技法として「オートマティスム」とか「デペイズマン」とか

馴染みないフランス語がたくさん出てくることもあって、ついつい高尚は方向へ考えてしまう。

それこそ形而上学とか哲学だとかそうした方向で。


ところが、作品を作り出す側のシュルレアリストたちがやっていたことはといえば、

要するに遊び心に溢れた製作姿勢であったとなると、かなり受け止め方も違ってくるですね。


例えば、マックス・エルンストはその作品世界に

コラージュ、フロッタージュ、デカルコマニーとさまざまな新奇の手法を持ち込みましたけれど、

見る側としてはそうした手法を用いた結果(としての作品)だけを表面的に見て、

ああでもない、こうでもないと思いがちではなかろうかと(個人的にはまさに)。


ですが、エルンストとしては、「木の葉の上に紙をのせて鉛筆でこすってみると面白そうだぞ」とか、

「絵具を置いた上からに紙を被せて写し取ってみるとどんな模様ができあがるかな」とかいう

遊び心でもあったかと。


こうした試行が何度かなされて、繰り返し使われるようになると、

前者は「フロッタージュ」と呼ぼう、後者は「デカルコマニー」と言おうと名付けも出来て、

いずれも自分の意思や意図とは関わりないところで生み出された画像は

「おお、これもまたオートマティスムではないか」と説明されることになったりしたのかもですね。


ですから、エルンストの作品を見て、

眉間にしわを刻んで「何たるか?」みたいに頭を捻る(これもまた楽しですが)のでなくして、

「いろいろ遊んでんなぁ」と思ったとしてもおかしくもなんともないということに。


これはエルンストに限らず、他のシュルレアリストでも同様でしょうから、

こうした遊びという次元に落とし込まれてしまいますと「なぁんだ…」と拍子抜けするのが、

ルネ・マグリットあたりではないですかね。


「偶然でなく、アナロジー(類似・類推)が前提」と解説されていたマグリットがやったことは

デペイズマンでありますね。要するに意外な組み合わせというもの。


ひとつひとつはそこらにあるなんでもない物をいくつか、意外な組み合わせで描きこむ。

結果は推して知るべし、まさにマグリットの絵が示してくれてますですね。


前にもどこかで触れたように思いますが、マグリットは意表を突くことを端から考えていたとなると、

意外性に驚くのはともかく、そこにあたかも難しい世界が封じ込められていると考えるのは的外れなのかも。

ですが、自分なりに「こうも考えられるよね」と解釈付けするのは、見る側の遊びともいえましょうかね。


ちなみにオートマティスムやデペイズマンを作品に展開するだけでなく、

シュルレアリストたちは仲間内で集ってはこうした手法を用いた遊びを考案しては

興じていたのだと言います。


そのした遊びのひとつが「甘美な死骸」というもの。

一枚の紙を4等分して、そこに頭、胸、腹、脚の部分をそれぞれ違う人が順番に描いていく。

他の人が書いた部分を見ずに書き足していきますから、

最後に開いてみるととんでもない姿かたちができあがるわけで、

そのとんでもない姿にシュルレアリストたちは大笑いしていたのだとか。


こうしたことは絵だけでなく文でもできるわけで、

「どんな」「何が」「何を」「なにする」といった要素を別の人が書いて突き合わせてみると

これまたとんでもない一文に仕上がる。

先の「甘美な死骸」というのも、こんなふうに作られた一文から取られたそうでありますよ。


ところでところで、シュルレアリスムは日本語への置き換えで「超現実主義」とされますけれど、

これも「現実を超えて」と受け止めて何やらの高みにあるような気がしてしまいます。


学芸員の方によれば、この「超」は「超かわいい」の「超」に等しいと考えるのが至当のようで。

「超かわいい」を「かわいいを超えた(別のもの)」と考えるよりは「とってもかわいい」であって、

同様に「とっても現実(的)」と受け止めてはどうかということになりますね。


実は至って現実的なシュルレアリスム。

いささか神話的にも考えてしまうところがすっかり暴かれた感無きにしもあらずですが、

見方のバリエーションがまた増えたような気がしないでもない。

結局のところ、どのように見るかはこちらに「おまかせあれ」ですからねえ。