丘 奈凰妃(おか なおひ)が、
「見えないものを見る人」
「ほんとうのこころの声を通訳する人」
「あなたのこころをぽんと押す、ヒーラー兼石屋」
にころがるまでのストーリー。
前回の記事は 16. 進学先は運任せ2択! 振り分けられたのは……でした。
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高校生編を書こうと思ったのですが、その前に今少しだけ、中学校生活のことを振り返ってみたいと思います。
と言っておきながら、中学校時代、もはやほとんど記憶がないのですが……。
中学校のことに限らず、昔は様々なことに対して、もう少しはっきりとした記憶があった気がするのですが、ここ数年、いわゆる「自我が薄い」状態になってきてからは、昔の記憶がとても曖昧になってきています(それ、自我どうこうじゃなくて歳のせいって言われたら、そうかもしれないけど、うむ)。
人生の思い出をアルバムにたとえると、昔はアルバムに貼ってある写真の一枚一枚の内容と、どこに何が貼られていた、という配置までくっきりとおぼえていたけれど、今は「アルバムがある」という認識だけがかろうじてある、という感じ。
なので、今覚えているのは、中学校時代の具体的な出来事というより、「大人になってからも、中学校時代は楽しかったという記憶が持続していた」ということかな。
人生の年代別のアルバムが、それぞれ違う色の表紙だとしたら、中学校の時のアルバムは、全体的に「楽しい」という感覚に彩られた一冊だったな、という感じがあります。
少しだけ、具体的な記憶を引っ張りだしてみました。
中学3年生の時には、生徒会をやっていました。
どんな活動をしていたか、これまた具体的には全く覚えていないのですが、全校集会の仕切りなどをやっていた記憶が、おぼろげによみがえってきました。
生徒会としてやるべき活動やスケジュールがいくつか決まっていて、主にそれをこなしていたのだと思います。
生徒会は、会長、副会長2人、書記長、会計長の5人で構成され、わたしは書記長でした。
皆、ほがらかで気のいい仲間たちで、わたしが尊敬する頭の回転の持ち主さんたちで、仲良くやっていたなあ、という記憶。
学校の1Fにあった扉をがちゃりと開けると、奥の方にある生徒会室は、とても好きな居場所でした。
やったことでひとつだけ覚えているのは、生徒会担当の先生からの提案もあったのかな、何やら校則を変える働きかけをしていたこと。
草案を作って、さまざまな順序を踏んで、最後は生徒総会で全体の決をとって、結局校則を変えたんじゃないかなあ。
何をどう変えたのかは、残念ながらちっとも覚えていないけれど、結構大きな動きだったように思うな。
やりたい、っていう提案が自然と出てきて、やろう、っていう仲間がいて、それをサポートしてくれる先生方がいらして、それを実行できるだけの環境があって。
わたしにとっては、中学校はとても自由な場所でした。
もうひとつ、わたしが直接何かをしたわけではないのですが、好きなエピソードがあります。
歴代の校長は、確か母体である福井大学の教授が務めていらして、当時の校長は音楽科の教授で、かつて、附属中学校の校歌を作曲された方でもあったのです。
わたしが入学した当初、校歌は斉唱でした。
それを、一つ上の学年の先輩方が、「3部合唱にしてほしい」とお願いしたらば、すぐに形になって、合唱形式になったのね。
元々詞も曲も好きだったのだけれど、斉唱の時よりとても膨らみがあって美しい重なりの歌に変化していて、歌いながら「これは、よいなあ」ってしみじみ感動したのを覚えてる。
「合唱にしたら、もっとよくなると思う」とお願いする生徒も、それを快く引き受ける校長先生も、素敵だなあと思った印象的な出来事でした。
中学では音楽教育に力が入れられていて、クラスでも学年でも、学校全体でも割と歌う機会が多くて、わたしはそれがとても好きでした。
ひとつひとつの思い出を思い出すごとに、出る杭が打たれないと言うか、出る杭を伸ばしてもらえる教育だったのだろうな、としみじみ思います。
大学からは東京に出ましたが、上京後も会っていたのは、もっぱら高校ではなく中学の時の仲間でした。
中学校時代の豊かな感覚が、わたしにとっては財産だったのだろうな、と思います。
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さて、高校生活で、出る釘はどうなったのか……
次回、
の予定です(20時に更新しています。更新したらリンクを貼りますね)。
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