オーディオの世界には長く、再生音を原音に近づけることを善しとし、原音から遠ざかった音を悪とする風潮がある。
そこには2重の過ちがある。
まず第一の過ちは、原音と同じ再生音を得ることは不可能であること。
第二の過ちは加工された音による音楽を否定していることだ。
演劇にしても、映画芸術は舞台演劇の複製品ではないはずだ。映画芸術と舞台演劇が、その芸術性において異なる性質を有している事と意味を同じくして、レコード芸術は生演奏とは、また異なった性質の音楽性を秘めている。
現在のオーディオ評論が、生音と再生音との比較に終始していることは悲しむべき事実である。それは、間接的に音質を評論するスペースからポップ・ミュージックを追放している事に他ならない。
ポップ・ミュージックの音は加工されているから、その音質には議論の余地がないという意見も横行しているが、結果として、それがポップ・カルチャーへの抑圧として働いている。
考えてみれば、抑圧とポップ・カルチャーとは大きな関連性がある。ポップ・カルチャーおよび、ポップ・ミュージックの本質は、本能的な抑圧を解放することだとも言えるからだ。
抑圧(よくあつ、独: Verdrängung)とは、『自我を脅かす願望や衝動を意識から締め出して意識下に押し留めることであり、意識されないままそれらを保持している状態である。精神分析において想定される自我の防衛機制のうち、最も基本的なものと考えられている。』
そういう観点から眺めてみると、ポップ・ミュージックがオーディオ業界からの抑圧を受けることは免れないことなのかもしれない。
さて、ポップ・ミュージックにおける音質表現は、原音の復元性の追求ではないことは、既に説明の余地もないだろう。
では、いかにして、その音質を評価するかということについては、ポップ・ミュージックの再生音の評価において、その再生音の動きがリスナーの感情をどのように動かしたかという事を評論するための一つの基準とすることだろうと思う。
その場合の、論文は以下のような流れで書かれることになるであろう。
①まず、評論者が、あるレコードの性質について、自分の意見を述べる。そのレコードがどのような音楽性を有していて、また、どのような社会的な影響を与えたか、あるいは、与える可能性があるかなどについて記す。
②例えば、甲という再生装置と、乙という再生装置でそのレコードを聞き比べた際に、評論者の感情が、音の動きに対してどのように動いたか、その違いをそれぞれ述べる。
③評論者が複数の再生装置によって聞き比べた結果、気づいたことを述べ、改めてそのレコードの性質について考察する。
以上の①~③の流れに従って評論する習慣をつければ、難しく考えることなく素早く簡単にポップ・ミュージックの評論記事を書き上げることができると思う。ポップミュージックの愛好家も、クラシックファンと同じように、よりよい音楽を知りたい。真に音楽的な体験がしたいと感じているはずだ。