仏教でいう苦楽とは、「くがく」と読んで「苦しむことを楽しむ」という意味だそうです。
しかし人生で何事にも苦しむ事なんて避けたいと思うものですよね。
私も大きい苦しみは極力来ないでね、と思ってしまいます。
しかし、人生で幾度となく苦しい事は大なり小なり自分に起きてくるもの。
もし、苦しむことを楽しめることができるなら、それは変人か奇人か?そんなことができれば良いと思いませんか?
苦楽とは、人生の様々な側面を示す言葉だと思いますが、実は常に同時に起きているようです。
苦とは、「辛い、我慢する、動けない」などの意味
楽とは、「たのしい、らく、見て見ぬふり」などの意味
苦と楽の間の中庸にこそ、絶対的な本質があります。
そもそも「苦」や「楽」を感じている時というは、何かしら対象や、人との縁が生まれているはず。
ここからは、「苦」を感じていたら「楽」が同時に発生し、「楽」を感じていたら「苦」も同時に起きている事を例にみてみましょう。
こんな方がいらっしゃいました。
Aさんからのご相談
「すごく拒絶したい人がいて、その人の事は生理的に受け付けないし話も本当ににつまらなく、二度と会いたくない、と毎回心に誓いますが、どうしてもまた会う羽目になってしまいます。
最近はその人の話を我慢して無理に聞いていると、耳鳴りがしてきて、自分で血圧があがりフラフラしてくるのが分かります。
どうしたら相手にこの辛さをわかってもらえるのでしょうか。」
このように「苦」を感じていらっしゃいました。
では、この方の「楽」はどこにあるのでしょう。
話を聞くのはどうしても嫌だけれも、本人に向かって「もう嫌だ」とは言えない理由は、「相手を無下に傷つけたくない」という意向でした。
ここに、苦と楽の両方が同時に存在していますね。
無理やり我慢して話を聞き続ける事が【苦】であるならば、
勇気を持って自分の気持ちを伝える事を避けているのが【楽】
苦と楽は、幻想の【恐れ】です。
苦も楽は、どちらが良い悪いもなく、相反する意味のようで質は同じです。
自分の【恐れ】に気付くと、自分の本質に戻る事ができます。
Aさんの【恐れ】とは、
「相手に嫌だ、と無下に拒絶してしまったら、相手を怒らせたり傷つけてしまうことになってしまう。」
という恐れがありました。
相手を怒らせたり傷つけることなく、相手に気持ちを理解してもらう為には自分がどうすれば良いか、それは自分の恐れを知り、本質に気付く事からはじまります。
相手の事があまり好きではないけれども、関係性を悪化させてしまうような事は避けたいのでしょう。 つまり、その相手の前では根底にある恐れから「物分かりの良い人」を無意識に演じていたのです。
勇気を出して「悪い人」になれと言っているのではありません。
自分の苦楽を知り、その恐れに気付く事で、自分の本質に戻る事ができます。
この方の本質は、「その相手とは、今もこれからも良好な関係性を保っていたい」という愛でした。本当は相手と縁を切りたかったわけではなく、普通の良好な間柄を望んでいたのです。
だとするならば、自分の意志で相手と良好な関係性を保たせ、自分も相手も気持ちよくいようと思う心持ちが自然と変わってくるでしょう。
「相手が自分にとって良かった所を改めて思い出し、気持ちが緩んできました。 相手を変えようとするのではなく、まだ恐れはありますが少しずつ自分の気持ちに正直に素直に表現できるような気がします。」
とAさん。
このように相手に対する自分の心の在り方が変わると、同時に相手も変化しだします。
できれば、相手だけが変わってほしいと願う事は【楽】ですが、相手が変わってくれるまでの間、我慢という【苦】を強いられてしまうというこの世の常。
苦と楽は同時に同じだけ存在します。
自分の本質とは、苦と楽の中庸に位置し、
苦と楽を統一させる事で本来の自分に戻れます。
「苦しむことを楽しむ」とは、苦と楽を統一させて物事を意のままに運ばせることなのではないでしょうか。
自分の本質を理解してあげる事で、相手に自分を明け渡す必要性はなくなり、思い通りの現実が具現化されてきます。
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