銀色の記憶①震える刃先と水のはなし | 日々のこと

日々のこと

女には2つの頭がある。
ひとつは天に近いほう、もうひとつは土に近いほう。案外、上のほうがいつも役に立たない。

気持ち悪がられる虫がいて、
誰かに押し付けずに引き受けた腐ったものを沈めて
混ぜた先に。
何か豊かなものが実ればいいのに。

悲しみや苦しみ、というのは不思議なもので、

それは特別な自分だけの宝物になりがち、というのは・・

親鸞上人曰く、久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、というやつなのだろう。

 

光のような、金色の記憶もあれば

絶望の中からみる光もある。

 

「―――――  あなたの内にあるものをすべて出しなさい。
そうすれば、あなたはまさに、あなたの内にあるものによって救われるでしょう。

あなたの内にあるものをすべて出さなければ、あなたはまさに、あなたの内なるものによって滅ぼされるでしょう」

 

・・・・古い、自分の手帳のメモから出てきた言葉。

 

どこから引っ張ってきたのか自分でも忘れてしまったが、

自分を滅ぼしかねないような記憶というものほど、溢れでてくるから不思議だ。

 

 

 

この季節になると、

いつも水道からじゃばじゃば溢れ出てくる水を眺めてしまう。

いつもテレビは炎ばかり映しがちだけれど。

 

 

 

古い古い記憶のこと。

その日の朝は英単語のテストがあったので、

朝の5時には、むくっと起きて炬燵で単語帳を開いていた。

うとうと・・・しかけていたら、庭にロケットが突きささった。

 

・・・・かと、思った。

 

そう、ただ、災害という「非日常」よりも、

その後の「日常」というやつのほうが本当に大変なのは間違いない。

 

誰かを失う。

・・気の毒に思われる。

何かを失う。

・・・・気の毒に思われる。

 

気の毒でもなんでもない人が日常を送るのは大変なのだ。

何を失ってもない、のにも関わらず

どこから拾ってきたか、

はたまた自分で集めてきたか怒りや悲しみ、というのは、

ひどくなれば、なんでこんな目に逢わないといけないんだという恨みは

どうにも解消しがたい。

 

それさえなければ、表に出なかった問題、

(・・と、当時は思っていたがいずれは出てくる問題)

たとえば奥深く、海でいうと深海に沈んでいたような問題が

ちっぽけな人の力では、どうしようもない大きな揺れで

一気にざばあ、っと吹き上がってくるのだ。

 

「つらいことを乗り越えました!」という人は表に出てくる。

乗り越えることができなくて沈んだまま、というのは

今を、今日のこの瞬間を生きるのも、

とっくに災害なんて去っていったとしても、離れがたいのか、

そこに、とどまざるを得ない記憶、というものはきっと誰にでもあるのかもしれない。

 

 

我が家は半壊だった、ましじゃないか。

家族も死ななかった、ましじゃないか。

もっとつらい目に逢った人もいるんだから!

 

と押し込めていた我慢というものは、きっと

何年もしてからもおかしな形でふっと外に出てきたりする。

 

 

スーパーボランティアのおじいちゃんはすごい。

彼は本当に「やりたくてやっている」。

ある意味、プロフェッショナルな感じだ。

私は彼を見るまでは、自分のなかにボランティアに対する偏見があった。

それは、自分が「気持ちよくなりたくて」やっている人たち。


私がみたボランティアの方々は本当に立派だった。

正しくて、笑顔で。

輝いている笑顔の前で、本当にあの頃の自分は惨めだった。

何カ月も水が出ないなかの受験生、という名のただの誰にも見向きもされない高校生だ。

 

 

自衛隊の方の運んでくださる水をもらうにも、大行列で、

毎度、並ぶ時間も惜しくて、

米を研いだ水で食器を洗い、その水でトイレを流す。

日々を生き抜くのにいっぱいいっぱいだった。

 

 

だからこそ、私は学校の帰り道に笑顔のボランティアに頼んだのだ。

 

 

体育館に寝そべる魚のような気力のない目の中を

いきいきと泳ぐ笑顔の若い女性に。

机の上にずらっと並ぶ、銀色のペットボトルをみて、

制服を着たまま、気楽な学生の分際でたのんだのである。

 

「・・・すみません、家の水が出なくて困ってるんです。一本いただけませんか?」

 

女性は即答だった。まったく迷いがない笑顔だった。

「ああ、これはこの体育館の方々の水なので」

 

 

「・・・そうですよね、すみませんでした」

 

 

すごすご逃げるように、笑って誤魔化しながら、体育館を走り出る惨めすぎる自分。

 

当時、母親が入院していたので、買ったネギを半分に折って鞄に突っ込んでいた。

そこはかとなく鞄の中から香ってくるネギ臭がまた笑えるほどに惨めだった。

 

いつも家でも惨めだった。

死んだネズミを見下すように見る親の目の色、

自分に向けて父親が握る包丁の刃先も銀色だった。

 

 

・・・人は「怒り」や「悲しみ」を向けやすいほうに向けていく。

向けても悪い気がしないほう、要は弱いほう、弱いほう、惨めなほう、惨めなほう。

間違っているほう、悪いほう、

そっちに向けている分には、自分は「正しい」まま、善人のまま、いられるからだ。

気持ちいい、からだ。

すっきり、するからだ。

 

水が下に向かって流れ落ちるように、

銀色の悲しみは下へ下へ滑り落ちていく。

溜まったところで、人はそこは見ないものだ。

もらったものなので、どこかに還そうとすると、頭おかしい呼ばわりされてしまう。

 

・・・・人は皆、立ち直る人がみたい。

それは、もちろんみんなそうだろう。

人は社会に感謝する人がみたい。

なんなら自分こそが感謝されて気持ちよくなりたい。

 

 

・・とはいえ、感謝は沸きあがるもので、求めるものではない。

もっとひどい災害に逢った方々に対して、私などはごめんなさい、としか思えない。

本当にごめんなさい、すみません、それはあなたじゃないほかのだれか、

私だったかもしれないのに、それを引き受けて下さった、

そこにいるだけでとてもこちら側こそが感謝しないといけない、そんな頭のおかしい考え方をしてしまう。

 

すみません、本当にすみません。

ごめんなさい。

・・そんな風に水はどんどん溜まっていったのだ。

どこからも漏れずに、深いところに溜まっていったのだ。

 

 

家からもどこからも逃げるように、自転車で走って走って、

夜中の公園の蛇口をひねったときに出てきたのは、水だった。

 

 

何カ月かぶりの水。

家では出ない水。

 

 

こんな暗い、じめじめした公園の

きったない落書きだらけのゴミっための公園の

蜘蛛の巣があちこちに引っかかった誰にも見向きもされない、

糞まみれの泥だらけの公園のトイレの

感謝されるどころかこんな惨めな自分が

 

こんな隅っこの蛇口をひねっても、

 

 

・・・銀色の水が溢れるように出てくる。

 

 

昔、どこかの童話でみた、水がどんどん湧き出てくるひしゃく。

銀色のひしゃく星は、こんな穴底にもあるんだ、と。

冷たい水の感触が手にやさしかった。

 

 

私は泣けて、泣けて仕方なかった。

震災以降、初めて、溢れる水を見て

やっと溜まった水が噴き出るように、吐き出せたのだ。

 

 

このときの内から湧き出るような、

誰にも強要されずに、本当にありがたい、と思える気持ちは、

なかなか味わう機会がない。

 

 

・・・・・だから、いつもこの季節になると、

流れる銀色の水を、ぼんやり眺めてしまう。