記憶を耕す | 日々のこと

日々のこと

女には2つの頭がある。
ひとつは天に近いほう、もうひとつは土に近いほう。案外、上のほうがいつも役に立たない。

気持ち悪がられる虫がいて、
誰かに押し付けずに引き受けた腐ったものを沈めて
混ぜた先に。
何か豊かなものが実ればいいのに。


誰かの腐葉土になるような、人生にしたい。



この言葉に、心が震える。

共感する、のは簡単だ。

他人の宝物をさも自分のものにして味わえばいい。

悲しみも苦しみも「個人」のものなのに、さも自分のものかのようにして。


心の底から共鳴し、うなずけるのは、自分の中に既にあるからだろう。


自分以外の「誰か」の栄養になる

には、善悪の判断を超えた
人によっては毒にも薬にもなりうるが、
それもすべてわたくし、という意味で清濁を引き受け
自立した人でしかなれない。

ある人は自分が善人として拍手されたいから、
とても素晴らしい親として評されたいから、
社会や周りから「咲いている」。


きれいだ、なんだと言われて
そこに「あり」たがるのも、見せたがるのも、
平気で奪うのも自力で栄養をすいとる力がないからだ。
そういう人ほど、悪や濁を人に押し付け一見きれいなまま、
自立しないまま、己だけが咲き続ける。
己だけがこの世界で咲くことを願っていたりする。
ただ、奪うものがなくなればいつか枯れてしまうので
怖れから、奪う。
怯えから奪うのだ。

天使であり、悪魔であり、
邪悪で聖なる、奪い奪われて、汚して汚されてまた洗うような
引き受けて味わい尽くした自分、
それが根付いてはじめて誰かの栄養になれるのではないか。

根無し草のように、あちらこちら漂っているうちは
いつか咲けたら、自分こそが誰よりもきれいに咲けたらと願ううちに
たったひとつの命なんて即座に泡になって消えそうだから。

私は今日のうちに、
今日のこと、
今日を書くために栄養にした過去も純粋な発露、として
今日のことをないまぜにして、書き綴ろうと思う。


耕して耕して。


地中深くの引っ張ってきた葉っぱの欠片やミミズの尻尾、
済んだこととして深くに眠り、すでに栄養となってしまったはずの何か、と共に。

まっ暗闇を歩く、過去の自分や
自分に似た誰か、や
未来を歩く誰かの腐葉土になるために。

 

 

 

やっぱり書き続けよう。