子供の入学を機に都会から、ちょっと山あいに引っ越したため、
道を歩いていると、あちらこちらに街中では見かけなかった大きなくぬぎのどんぐりが転がっている。
あのオシャレな帽子が好き。
まあるい、くぬぎのどんぐりの形も好きだ。秋だな。
大きな木々の下のアスファルトに転がって、たまに車にひかれてぺしゃんこになるどんぐりたち。
彼らを眺めていると、ここがもし土だったらきっといくつかは木になれたろうに、と思う。
一方、親のほうは昔と変わらず、そこが土だろうがアスファルトだろうが子供をぽろぽろ生み落とす。
きっと、今、私たちの現役世代が置かれている状況もそうなんだろうな、と思う。
どんぐりたちが置かれたアスファルトの上と変わらないというか。
「根付く」というのは本当はとっても難しい。
子供は精子に卵子をかければ、はい出来上がり、とインスタント的に出来上がるものじゃないからだ。
昔から人は子供を生んできただろう。歴史や文化という土の上に。
でも、親から親へ受け継がれた文化の上に生まれる人は数少ない。そういう人は芸能界だろうが、ビジネスだろうがやすやすと成功しやすいだろう。だって、根があれば伸びるもの。
核家族化された、無味乾燥なアスファルトの上で根付くことなく生まれてしまい、
そのまま、なんてよくある話だ。
どんなに水をやろうと、がんばろうと、生えようがない。
夢を抱きようがない、というか。
森に住む木は知らないのだ。自分がどんな世界に産み落としたのか。これがなぜかどんぐりを落とせば、みな「努力次第で」成功する、立派な木になる、と思い込んでいる。
一方、現実としてここでは無理だ、それが不毛だ、となんとなく分かっているから子供を生みたがる人間も減ったのだ。
ずっと、砂漠に水を垂れ流すみたいに、あがいてきたが
親からの呪縛が解けて、ようやく芽がでてきたから分かること。
「根付く」とは夢や希望を広げる、ただ「呼吸して生き延びる」状態から
目的をもって伸びていく、世界の中で自分を拡張していく、ということだ。
それが、どれだけ困難な状態にある人もいるか。
自尊心、要は親に愛情をもって育てられ、豊かな文化の上で育っていないと、大地に根付きようがない。
ちょっとした風で飛ばされるばかりだ。
いつのまにか、手洗いに自動の乾燥機が増えた。昔はあんなのがなかったため、みんなハンカチで手を拭いていたのに。
ゴーっと、ものすごい音がする。
息子が赤ん坊のころ、あの音でよく泣かれた。
自動で動く乾燥機は確かに便利だろう。100人中100人が便利だというだろう。
ばあさんもよく使っているのを見かける。私は使わないけど。
子供が不快なこと、は気づきようがない。大多数に飲み込まれ、少数の声は消えていく。子供が泣く機会が増えたのは本当に親のせいなのか、、どうか。
蛙やおたまじゃくしが遊んでくれない分、母親一人でずっと相手をし続けるのがどんなに厳しいか、
子供にとって心地いい世界はアスファルトの上にあるかどうか、考えたらわかるのに。
資本主義では子供はお客さん、になる子供向けビジネス以外は
完全に部外者なのだ。
木を切って売っぱらって、金にしたり、道にするのは簡単だ。
遣り甲斐もある。
種をまいて、芽がでなくても、水をやり、目に見える結果もでず、すぐ儲かることもなく、
見えない土の中でゆっくり、ゆっくり、ゆっくり根が広がっていく・・
そんなものすごく非効率的で、本来の資本主義社会からすれば、
まったくの別世界で子供は生まれ、育っていくんだろう。
それでも、アスファルトの上では育ちようがないし、
砂漠にいくら水をやっても、なんにもならない。
元々、土の上にいる人々は知りようがない世界があるのだ。
自分がもし不毛な場所にいるなら、
ある種の人間は内面から変わる必要がある。
不毛なアスファルトから、親の思い込みや脚本から逃れて
大きな風にのって、自分の好きな場所で根をおろさないといけない。
そうするうち、自分の周りがいつのまにか変わっていることに気付く。
子供時代の私の扱いはゴミ同然だった。実際ゴミ呼ばわり、だったし、アスファルトの上でぺしゃんこでつぶれていただけだった。
でも、今はちがう。みんなが過去の私ごと受け入れ、必要としてくれる。
そこでやっと根をおろし、夢や希望を抱けるのだ。
自分の一番身近にいる人間が自分を必要としてくれる人間でないと、自分の信用できる人でないと夢は抱けないと思うがどうだろう。
そうでない限り、それは見掛け倒しの成長ぶり、伸びっぷりというか。
誰でも夢がかなう、なんてことはない。
まず、安心して根をおろし、伸びるのはそのずっとあとの話だと思う。
道路の真ん中にころがるどんぐりを拾って持って帰った。
どんぐりは手のひらの中でほんのり温かい。