学校の校庭で放課後遊べないなんて、
私の子供のころには考えられなかった。
学校が終わった時点で、先生の管理外だから、
校庭で何かあったら責任とれないから、という理由らしい。
別に責任なんてとらなくていいのに。
・・と、私なんかは思う。
放置、って言われるんだろうけど。
誰かがクレームを言って、誰かが言われたくないから
「じゃあ、遊ばなければいい」か。
そんな感じで子供の世界は狭められていく。
変わって、資本主義の餌食になっていく。妖怪ウォッチとか 笑
お金を払って、「子供の世界」「子供がいていい場所」を買う時代だ。
自由に考えて、わくわくできて、
思い切り笑って、走れて、
それで怪我をしたほうのリスクと、
ずっと管理下におかれ、自分を見失い、相手を見失い、
ずっと透明人間のまま、生きてるけど死んでるような人間になるリスクと
どっちがでかいんだろう、と。
「選ぶ余地」はないのだ。
どんどんスキマはなくなっていく。
権利と責任が牛耳って、
「何もない」「誰のものでもない」そんな境界がなくなっていく。
山と街がある。
昔、山の世界は山に住むものたちの世界、
街は街に住むものの世界、そういうすみわけがあった時代、
原っぱというのは
どっちの世界に住むものも自由に出入りして、なんなら一緒に遊べる境界でもあったわけだ。
クローバー、要はシロツメクサ(白詰草)というのは生命力の強い植物で、
海外から梱包材として持ち込まれた草が、ここまで広がったんだからすごい。
初夏のクローバーのしっとりとした感触を味わうのは好き。
あの生き生きとした緑の葉と星のようにまたたく白い花。
いつまでも寝そべっていたくなる。
山では人が頭を下げて、
街では動物が脅かされるが
そういう「境界」、どっちの場所でもない場所であれば
人と動物は「フェアな関係」として出合えるわけだ。本当の意味で出合う。対話が生まれる。
人は人と出合うだけでなく、
空をみれば、雲の魂と出合ったり、
しっとり濡れて気持ちよさそうな蛙をみれば
その蛙の気分を味わうことで「蛙と出合ったり」する。
あなたは、あなた。
わたしは、わたし。
そうはいっても、混ざり合うことができる「隙間」がある。余地があるはずだ。それは思いやり、と言い換えてもいい。
何の干渉も受けず、その自由な世界で、自分の判断で自分以外の誰かと真摯に向き合い対話する。
そこからヒントを得て、数々の童話や物語が生まれ、日々の生活に取り込まれていくというか。
権力が入り込めない場所、スペースというのがたくさんあったのだ。
自由な創造が生まれる、かつてはあっただろう、今はほぼない「すきま」。
山のものは、山の神様のものなので、
山に入ったものは、その持ち物を「落とした」ということで
山賊に盗られても仕方ない、そういう発想は今じゃ信じられないだろう。
誰の場所でもない場所、というのは自由がある。
行き来できる。
今はもちろんちがう。誰もかれもが「自分のものは自分のもの」。他者がいない。他者と出合える隙がない。誰もかれもが権利を主張して、子供はもちろん誰も入り込めない。
「誰のものでもない」すきま。
子供はいったい誰のものか。
社会のものか。
個人の親のものか、
子供は子供本人のものにちがいない。
彼は彼のために存在している。
彼は彼と彼の存在する世界のために存在している。彼は世界と対話して、自分を切り開いていかなければならないはずなのに。
でも、今現代ではそんなことはない。
彼が怪我をどこかでしたら、誰かが責任をとらねばならず、
その誰もが責任をとりたくないので
彼は自分の責任で遊ぶことを許されず、
怪我をすることもままならず、
そのわりに、もしその彼がどこにもいくことができず「世界そのもの」を失ってしまったら??
世界は一体、誰かのものなんだろうか。誰もが頭を下げながら「ここに入らせてください」そんな許可制なんだろうか。親は子供に対し責任がある、というが、親だけで「世界」に成り代わることができたりするんだろうか。そこに子供本来の自由なわくわく感、ドキドキはあるのか?
要は、どの場所にも入り込むにも頭を下げて、「許可を得る」必要があり、誰彼のルールがあり、
そのルールというのは、山のものは山のもの、というルールではなく、
山のものは、誰彼のどこそこさんのものだから盗っちゃだめ、ということ。
たわわに実る枇杷や、葡萄を勝手に採って食べる、そんなことは断じてしてはならず、
そうして、草木と出合うこともなく世界を失い、引きこもりになった際は、「誰も」責任をとることはなく
「彼個人」の責任の上でそうなった、とされるわけだ。
いやあ、こんな話をしたって、
ルールは守れ!子供の責任は親だろう?が主流の今となっては
何を言ってるのか!?バッカじゃないの?と言われそうだが。
子供は大人の責任や管理下以外のところでしか、本当の自分を見いだし育てることができないのに。
要は子供が自由に手出ししても、行き来しても怒られないすきまって、
こんなに減ってるのに、今は子育て楽でしょ、なんていう昔世代の言い分ってなんだろうな・・・と思う。
老舗、和菓子屋の主人(六代目?だったかな)に取材に行った際、
その店では和菓子のサンプル(パッケージの中身が分かりやすいように展示してある)が本物で小さな子供が自由に触ったりできるし、
お店の外で餅を自分で焼いて食べたりすることもできた。
「そのサンプル、ちっちゃい子供さんが間違って食べたりって、ないんですか?」と私がきくと
「ええ、ありますよ。ちょっと固いとは思いますけどね。毎日職人が作ってますけど、ずっとここに置いてますから」とご主人が苦笑いする。
そこのお店は昔から子供と縁が深く、小遣い片手に買える和菓子をずっと売っていたし、
今後も売り続けたい、そんなお店だった。
たとえばその店で作る柏餅に使う柏葉を長谷寺のまわりに住む小学生たちが集め、
それを仲買人に売ってお小遣いにしていたという話も残っているらしい。
(ちなみに、そのお店は大阪にあり、長谷寺とは奈良の山のほうにある。399段の長い登廊を登りきるとうちの息子が「山の神さまに会いにいく」と喜んで何度も顔をみせにいったことのある、やさしい顔の観音様がある。)
今なら、きっとその柏葉は、山の持ち主のもので
きっと子供は勝手に拾って売って小遣いにしたら怒られるだろう。
要はすきま、は
自分で考えて、工夫して、新たな価値を生み出していく、
そんな「考える」すきま、でもある。
自分で考えて、決めて、行動していくすきま、といっていい。
もし、そんな隙間がこのまま世界から失われて
どんどんネット中毒の子供が増えて、今の子供は、親は・・なんて責める人がいたら、
じゃあ、隙間をください、と思ってしまう。
誰のものでもなく、子供が自由に出入りできる、すきま。
昔は探さないでも、きっとあちこちにあっただろうけど、
皮肉なことに誰も権利を主張しないから(笑)駆逐されてなくなりつつある、すきま。