種のこと。 | 日々のこと

日々のこと

女には2つの頭がある。
ひとつは天に近いほう、もうひとつは土に近いほう。案外、上のほうがいつも役に立たない。

気持ち悪がられる虫がいて、
誰かに押し付けずに引き受けた腐ったものを沈めて
混ぜた先に。
何か豊かなものが実ればいいのに。

旧約聖書の伝道の書より
(ちなみに私は宗教や神は信じていない。縛られるから。でも、仏教でもアニメでもなんでも大衆に根付いたものの中には「ヒント」は詰まっている、と思っている)

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天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。


生るるに時があり、死ぬるに時があり、

植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、

殺すに時があり、いやすに時があり、

こわすに時があり、建てるに時があり、

泣くに時があり、笑うに時があり、

悲しむに時があり、踊るに時があり、

石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、

抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、

捜すに時があり、失うに時があり、

保つに時があり、捨てるに時があり、

裂くに時があり、縫うに時があり、

黙るに時があり、語るに時があり、

愛するに時があり、憎むに時があり、

戦うに時があり、和らぐに時がある。



働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。

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善と悪、で考えたがる人がいかに多いことか。
起こったことに対して、誰が悪いとか、
誰の責任だとか。


もし、因と果実(果)で考えた場合、


誰かが種を撒いて育てたのだとしたら、
それは、もう時を経たら実がなるのだ。


誰かが知らずに水をやり、
誰かが知らずに見過ごして、
育ちに育った「何か」が目の前に現れてくるとき
人はその「何か」が突然起こったように思うらしい。


大地がエネルギーをため込んで爆発したとする。

人の目からみれば悪いことにちがいないが、
それはやはり「そのとき」起こるべくして起こっている。


いつも、思うのは、
こういうときの周辺(決して当事者じゃない)に湧き出るように現れる
「いいことしたがる」「正しいことを言いたがる」「自分の正しさを見せつけたがる」やつらのこと。


(震災で)地域的に復旧が遅く何カ月も蛇口から水がでないとき、
母親も入院していたために
食糧や水をなんとか調達しないといけなかったとき、
学校からの帰り道、体育館で一人のボランティアに
「ここの水を一本ください」とペットボトルを指さして言った。一本でいいから、と。
「この水は、この体育館の方たちの水ですから」と言い放ったときのやさしさ溢れる善意に満ちたボランティアの女の微笑みを私は忘れることができない。
まったく「迷いがない」輝かしい正しい側の微笑み。
ふとんにくるまったままの青ざめた当事者たちは黙り込んで気の毒そうに私をみている。


10代の私はそこに、くっきりと光と影をみた。わざわざ遠くからきたボランティアは光を浴びるために来たんだな、と。「気持ちよくなるために」きたんだな、と。


正しさには何も言うことができない。当事者は無色、透明人間になる。
それは今も。
もう20年も昔のことなのにその光と影の印象が強すぎて、
その裂け目を飛び越えることができない。
いつも光側にいる人たちをどこかで恨めしく思っているんだろうか、いや、そんなことはないはず。
自ら進んで影の中に手を突っ込んでわざわざ汚してみて、今もたまにかき混ぜたりするだけだ。それは好きでやってるんだから放っておいてくれ。



光側からは影はよく見えない。影側からは、よく見える。



偽善は、何もしないよりいいと思っている人たちの正義なのだ。善ですらない。
真っ向から襲ってくる悪よりもタチの悪い悲しみや無力感を生む。
それはそれぞれの快感であり、個人の気持ちいい、という高揚感なのだ。

偽善は、何もしないよりたちが悪い「とき」がある。そうでない「とき」もあるだろうけど。
何か言うのも、言ってしまうのも、
黙っているよりたちが悪いのと同じように。
それは自分が「気持ちよくなっている」ことに気付かないこと、
悲しみにくれる当事者から見えない何かをさらに奪っていることに気付かないことにある。

その「とき」に何をするか、はそれぞれそのときにどこにいるかで異なってくる。


仕事はたとえ悪を引き受けてでも遂行しないといけないこともある。
その「とき」にそうすべきであれば。
だから自衛隊はすごいのだ。そのあたりのボランティアやビラ撒きババアの放つ嘘くさいニコニコ笑顔とはちがう。


黙々と人知れず行う仕事、というのは孤独だが尊い。
遠い場所でいいことをしよう、ではなく目の前に仕事があるから、それをやるのだ。


私は、別に盗みを働いたり、
法を破ったり、親を殺したり・・は
時と場合により、仕方ない場合もあるだろうと思う。

人殺し、が悪いとか、いいとか
そういうのではなく、
どういう状況が人をそこまで追い詰めたのだろう、と想像してしまう。
そうなるべくしてなっている、のであれば
天災と同じように、自力ではどうしようもないことすらあるだろうと思う。
見えない何かに押されてそうなることもあるだろう、と。


ただ、正しさの壁が高すぎて、横にそれ
まったく関係ないところで他人が引き受けてしまう場合がある。


そのときに叶わなかった思いが、願いが
場所と形をかえて、姿を現す。
「実」がなる。


息子が実の母親や父親を殺した場合、
願いが、思いが、成就したんだね、よかったね。とすら思う。
他人が引き受けずに済んで。



まったくの無関係の他人の場合はそうは思わない。



お前は、お前の周りは何をずっと誤魔化してきたんだ、と思う。
ここまできて誤魔化して、まだ立ち向かうべき相手を見誤ってると。






薄紙を日々、一枚一枚重ねるようにしか守ることができない。

それはすべて今、この瞬間を重ねるように生きていくこと。


トイレは自分がきれいになるために磨くもんじゃない。
便器が汚れているから磨く。

今、目の前に汚れがあるから、ウンコがついているから磨くのだ。

そのままにしていては、ますます汚れが落ちづらくなる。


毎日、毎日、拭き掃除をする。
家族の毛を集めて、「これだけ落ちるのだ」と感じる。

みょうがを食べる。
昔、まったくおいしく思わなかったそれを
その苦味を

「今」はおいしく感じるようになった、のだと気づく。

夏だな、と。




そんな薄紙を重ねても、破れるときは一瞬で破れてしまう。
父が震災後、私に包丁の切っ先を向けたとき、
ふるえる刃先を見つめがながら、
もうダメだな、とあの時点で気付いていたのに。
その時点で気づいていたのに気づかないふりをしてしまった。もっと早くに気付いたままの行動をとっていれば傷は浅かったのに。


見過ごして、見ないふりをして、「今」を逃すと問題は大きくなるばかりで何も解決しない。


人は遠くにあることのほうが簡単なのだ。
簡単で自分が気持ちいいことからしたがるが、
本当は、もっと身近なところに種がある。


もっと、よく観察してどうすべきか「今」この瞬間、判断を迫られている。



時間が経てば経つほど、傷は直るかもしれない。
「起こったことは直りうる」が、
起こらないことは、大きく、大きくなってしまう。


「誰か」が引き受けるまで。



そして誰か、が誰もが遠ざけたいこと、
誰もが望まないことを引き受けてくれたのだ。
ごめんなさい、許してください、本当にごめんなさい、とすら思う。


自分が引き受けたことは自分で受けて立つしかない。


自分じゃない他人が受けて立ってくれたことに対し何か言うこと、なんてできるんだろうか。
(例の寝屋川の事件で被害者の親を責める人が多いのが不思議だ・・犯人の親を責めるならまだしも)



その大きくなったものが実ったとき、一体誰がこんなおそろしいものに育てたのか、
いつのまに育ったのか、なんて誰にももう知るよしもない。




それは、本当は、いや絶対に、
最初は小さい「種」だったはずなのに。


今も誰かがきっと種を撒きつづけている。
それが希望なのか絶望の実がなるか、は、その誰かや
縁があったその誰かの周辺がどう動くか、なのだ。


結局、「今」の時点に立って、自分が自分の範囲で動くことしかできない。
汚れを落としたり、朝顔に水をやったり、気づいたときに鬼は外に追い出したり。

  




  堕ちる道を堕ちきることによって、
  自分自身を発見し、救わなければならない。
  政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。 ~堕落論~