なんとなく「嫌い」、のそばにあるもの | 日々のこと

日々のこと

女には2つの頭がある。
ひとつは天に近いほう、もうひとつは土に近いほう。案外、上のほうがいつも役に立たない。

気持ち悪がられる虫がいて、
誰かに押し付けずに引き受けた腐ったものを沈めて
混ぜた先に。
何か豊かなものが実ればいいのに。

知り合いの店で一人ぶらぶらカウンターで飲んでいると、
店の若いネーチャンがふと私に


「私、本当に子供嫌いなんですよね。絶対子供なんか生みたくないですし、むしろ『子供作らない団体』作って人員募集中なんです!」と冗談交じりか本気か言ってくる。
お店の中で客にそう言い触れ回っているとのことだ。
私もこの店で子供の話なんてしたこともない、ただの酔っ払いだったのに。まあ、言いやすい相手だったんだろう。


「子供生んだこともないくせに!」「女なら生んだ方がいいよ」なんて口が裂けてもいえる人種じゃないし、「家族っていいもんだよ」とかもありえない。
こんな、おっさんみたいに一人ぶらぶらした酔っ払いは家族と無縁な感じでもしたんだろう。


いかにもモテそうな金髪ショート、パンキッシュなオシャレ系な感じ。
キュートな顔立ちの若い女の子は見た目も嫌いじゃない。
きっと、そういうステータス(?)需要もあるんだろう。
子供嫌い、ってかっこいい的な?子供好きっていう男に媚びるそのあたりの女とは私はちがう感じだぞ、的な?

まあ、謎は謎のままおいておこう。

ただ、「まあなあ。ワカランでもないけどなあ・・ただ産んでみて分かることもたくさんあるよ」としか言えなかった。だいたい私がそういうと目をまるくされる。

子供がいるように見えないとか、こんなとこで一人で飲んでていいのか、とか。
週1くらいでしか飲んでなくても、しょっちゅう飲んでいるように見える風貌というのもなかなかつらいものだ。
(あ、週1でも飲み過ぎという方もいるだろうが、私の場合、本当に1人で一杯ひっかけて酔っぱらって帰るので一時間も椅子に座っていないのだ。※注:旦那さん許可有)

ただ胸の奥がチクリとしたのは、ちょっと悲しかったのは(決して腹が立った訳でななく)
そのネーチャンははなから他人の言葉を拒否しているのがみてとれたからだろう。
もう決めてます、絶対なんです、この価値観はゆるぎませんし、あなたの常識なんて通用しませんよ、的な。こっちははなから常識人でもなんでもないのに。


生んだ方がいいと決めつけられるのが嫌なのはわかる。
生まないほうが正解でしょ、と決めつけられるのもやっぱり違和感がある。


ただ、どちらにせよそんな風に決めつけられ拒否されているうちは、
どんな言葉を発しようが、どんなに心砕いて言葉にしようが相手には届かないものだし、
それはそれでどうしようもない。


ただわざわざ「生みたくないです!」と声高に言う必要もないし、徒党を組む必要もないだろ、とは思ったが。


子供を生むと、否が応でも自分のルーツを辿って行かないといけない。
子供を生むと親に感謝するどころか、否定され続けた人間は、わざわざ二度虐待されることになる。
いちいち場面、場面で思い出すハメになる。無意識に避けてきた問題が浮上してくる。
表層は社会の問題、学校、就職いろいろあるが、そんなものは上っ面で奥に潜むものがでかい。


「なんとなく嫌」の底のほうには、なんらか家族の問題があるのだ。
「え~っ、うちは平和でしたよ。家族みんな仲よかったですし、虐待なんて滅相もない」なんて言ってるやつが案外危ないのだ。


まさに、私もそうだったからである。家族みんな「仲が良かった」。
表面上で離婚だとか喧嘩だとかそういうよりも巧妙に仲が良かった。


私は昔、透明人間だった。


夕暮れどきの赤い太陽の光が、小さなズックを履いた足の裏をつたい
ジャングルジムのひんやりとした鉄を ほとほととしたたって まだあたたかな地面へとたまっていく。
目に映る世界はこんなにも色鮮やかなのに自分だけに色がない。
どんな色をどんなにたくさん食べたところで
あたたかい感触だけは確かに掴んでいる、
掴んだはずなのに、一瞬でそのあたたかみが消え、何も自分の中に残らない。


愛という相手側の匙加減のもと、
こちらが渡すバナナ、パイナップルを食いさえすれば
黄色になるはずだ、
黄色にならないお前はおかしい、と正しいことを言ってくれて
黄色にならなかった子供は、自分の色を捨て黄色のふりをする…
そうこうするうちに、色を失い、感情を失っていた。


埃っぽい家に帰れば、また怒鳴られるんだろう。
水道の蛇口をひねるたびに、ひきだしを開けるたびに、電気をつけるたびに、一歩踏み出すたびに怒鳴られるのは
右へ左へただゴールを狙って右往左往しているのに似ている。

あっちだ、こっちだ必死で目の前のボールを追いかけるものの、
左にたどりつけば、「なんで?右だったのに」と言われ、ようやっとの思いで右へ行くとやっぱり左だったのに、と言われ
繰り返すうちに、何を目指して走っているのかさっぱりわからん、というオチだ。

ボールを意識するうちに、自分を意識するクセがなくなり、しまいには透明になっているという。
周りはとっくに、自分の決めたゴールに向かって走っていても、
自分もその労力と時間があったはずでも、まったく無駄にしかならなかった悲しい透明人間。


私が透明人間だったころ、私は感情を表にだすことはなかった。
「大人の手をわずらわせる」ことは絶対に許されることではなかった。

4つか5つくらいのときに、母の友人の子供(決して友達とはいえなかったが)の誕生日会に招かれ、


「こいつ、絶対怒らないんだよ。あほっ!!!ほらね」とけらけらみんなの前で笑われたこともあるほどだ。


まあ、ずっとヘラヘラしていたさ。うん。


さらさらの長い毛をなびかせながら
妹が天使の輪を頭の上にのっけていても、私はまったく髪の毛を伸ばすことは許されなかった。
バリカンからハラハラとマッチ棒みたいな黒い短い毛が落ちるのをまつ毛の上で眺めながらも、
「髪の毛伸ばしたい」なんて言う権利はなかったのである。自分の「こうしたい」という希望や願望をもつのは「色」をもつことが許された人間だけで、透明人間はただの透明人間なのだ。


さて、そんな透明な子供が色を親から取り返すこともなく
結婚願望もまったくないのになぜ子供を生むことになったかは、これもまた縁なのだろう。

嫌いだ、嫌いだ、嫌だ、嫌だと思っていると突然向こうから寄ってきたりする。
それはその「ただ嫌い」という理由を知りなさい、という見えない何か恵まれた機会でもある。


私は小さな頃から子供が嫌いだった。
すぐウエーン、なんて泣く子供、おもらしをして大人に泣きつく子供をはなからバカにしていた。
感情をあらわにするちいさな子供たち。
泣いたり、怒ったり、騒いだり。

それは、まさに自分が奪われた「何か」おそろしいものだったのだ。


あったものを失うと気づくこともできるが、
もともと欠けていた、奪われていたものに気づく機会はなかなかない。


この時期によく目にする個性、
小さなころから目や足やなんやらが欠けている子供より、
色を奪われたまま透明人間化した子供のほうがよっぽど悲しいと思う。

地球の裏側でやせ細って死んだって、母親に抱かれて死ねるほうがいいと思う。

はなから無視されて否定されて「いる」のに「いない」と言われるよりは。
目の前の悲しみを無視されて大きくなるよりは。

五体満足でも、「見えない」扱いされれば死んでいるのも同然だ。
喜怒哀楽を奪われた透明な子供は、足がなくて歩けないよりも自分の意思で歩くことができない。



そうして私は怒ること、泣くことを許されていない子供だったために
どんなに体がでかくなっても「子供嫌い」というレッテルを貼って自分を誤魔化していたのだ。

「おろして。メンドーだから」なんて輩と付き合っていたら、容赦なく子供はいなかっただろう。

それがこの世は不思議なもので、「自分がなんとなく嫌だ」と向き合わざるをえない場面が往々にしてあるのだ。


生みたい、子供欲しい、絶対欲しいといっている人こそ、子供ができずに「なぜ、どうしてそこまでしてそんなに子供が欲しいのか」考えないといけないように
「生むのいや。子供嫌い」なんて言ってても、なかなかこれがどうして命というのは自分の意思でどうにかできる問題でもないんだから仕方ない。
無責任、と言われても仕方ない。理性より衝動が後々になって自分の正直な思いを反映していることが多々ある。


だって、この世に自分の意思で心臓を動かしたりしている人がいたらそれはすごいことだ。
寝ている間に止まらないことを祈りたい。


他力、で生かされているのは間違いない。


で、妊娠しているときに、七か月くらいだったろうか。お腹の中の赤ん坊が男か女か判明したときがあった。
信号待ちのときに母がふと舌打ちしながら「なんだ、男か」とつぶやいたのだ。

「なんで、男やとあかんの?」と聞くと
「女の子ほうが楽しいに決まってるやん」という。


そりゃ、自分の思い通りに透明人間を仕立てるのは楽しいだろう。何が決まってるんだかさっぱりわからんが、母の中では決まってるんだろう。私はいつものように何も言わなかった。

母に何も言えないまま、自分に似た女が生まれたらきっと殴り殺してしまうな、と思ったものだ。
自分の遺伝子なんて絶対に残したくないとそのときもまだ思っていたのだ。
怒りも悲しみもまだ奪われたまま、透明なまま。



胎児というのは、母親の中で地球の生命の歴史をたどるらしい。
何十億年という旅をたった一匹で辿っているわけである。

ちょうど、海から陸へあがるころ、
魚から足が生えるころ、母親はつわりでしんどい、ということだ。

母親とはまったく別世界のどこからやってきて、
夢をみて、通過していくだけのことなのだ。


母性というのは幻想だ。
そんなものを抱えた時代はないと思う。
三歳児神話なんて戦後のごく限られた時代だけで、
ほぼ、母親の枠を超えた何かが子供を育てている。


胎児の時代から。



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『 君と別れた朝に 』  


私は昔 一匹の魚でした
私は昔 一匹の蛙でした
私は昔 一匹のトカゲで
一羽の鶏でもありました


何十年もの
地球の生命の海を
たった
一匹で旅をしました
途中で終わればいいものを
ヒトまで旅しただけのこと


アイヌの人々は
赤ちゃんと 老人を
「神の国」に近い者として
大切にするという


さしあたって
私は今
神から一番遠いらしい

それならやっぱり
やっぱりうなずける

もしトカゲだったなら
もし蛙だったなら
もし魚だったなら

もっと海に近ければ
もっと何かに近かったかもしれないのに


世界は灰色になってしまった
なんの温度もあたたかみを失い
カレンダーをめくる意味も
春も夏も秋も冬も失ってしまった


働けど働けどなんてじっと手を見る暇などない
私はひたすら
お金を動かす言葉だけに追われ
たまに駅の改札にカタンとしめだされ

白と黒の冷たい
山積みの原稿と紙の束たちをらせん状に積みあげて
街のあちこちにばらまくだけの日々


君も昔 一匹の魚でした
君も昔 一匹の蛙でした
君も昔 一匹のトカゲで
一羽の鶏でもありました

何十年もの
地球の生命の海を
私の中で旅をしました


気がつくと
ひび割れた裂け目から
光が洩れて
遥か昔の生命の海、
太古の海が広がる世界から放り出されたのだ


それは光も闇もない世界から
朝と夜が分かれ、
大地と空のくっきりとした裂け目が広がり
雲も風もまぜこぜにならず、
全てが別々に名前をもつ世界へ


君と私が初めて過ごす朝もその前から世界は続きを演じている。
何も変わらない朝。


ひたひたと近づく太陽の光、
遠くに聞こえるトラックの音と、
まだ静かに眠る人たちの呼吸と
わさわさとすでに働く人たちの息遣い
街が呼吸をし始める瞬間。

そして、ざわざわと
屋根より随分高い、ぐたっとしていたこいのぼりを元気にして、
萌える木々の葉と葉の間をくぐりぬけ、
星のようにまたたくシロツメクサの上を分け入って、
ぽてぽてと膨らんだ、まんまるなタンポポわた毛をすっぱだかにした風が


今、
たった今、君と私の傍を吹きぬけようとしている。



灰色だった日々に、
桜の花のひとひらのあたたかみや
雨が肌にしたたる感触、
星のようにまたたくシロツメクサの冷たさ、


ふたたび、風と温度と手触りと
光と朝の気配、その匂いが
ふたたび世界の気配が、
私に戻ってきたのだ。



君と私がくっきりと分かれた日
君がやってきた朝に。


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幸いにしてなぐり殺さずに済みそうな
旦那に似た男の子の赤ん坊だった。私はこのとき、確かに感動した。そのときに書いたのが上の詩だ。


風が吹くときがある。
どうしても突っ込んで見ないといけない事実や受けて立たないといけない瞬間があるのだ。



かといってその体験を経たとしても、
私は生んだ女が生まない女より偉いとかステータス、なんて考えは微塵もないし、
もちろん、お腹を痛めて生んだ母親のほうが父親より偉いというのもないくらいのただの酔っ払いし、
独身でバリバリ働くフリーのカメラマンさんの女性のほうが、
旦那や子供の文句ばかりいうお母さま方より気が合うし、
(ちなみにママ友はいない。ご想像どおり)

わざわざ「子育てせよ!生めよ!」と主張することは今後もないだろう。


少子化のため、に生むなんて滅相もない。
国が滅びようと社会が倒れようと関係ない。
それは「自分の意思」で決めたことだからだ。

それぞれの個々の選択が、本来の望みなら叶うべきだと思う。
生む、も生まないも、本来の願いで、心からそうしたいならそうしたらいいと思う。

なのに、わざわざ何か引け目があるのか
自分の主張を認めて欲しがるのが、やっぱり女は一人では怯えがちなのか。

数の増大とは陶酔につながるとはよくいったものだ。


共感を増やしても問題は解決しない。
質問の中に、もうすでに答えを含んでいるのだ。他人にいくら質問したところで自分の答えを後押しする答えばかり探し集めて、それでも不安というオチなのだ。


もともと決まっている答えを求めても仕方ない。


まったくもって自分の予想や想像を遥かに超えた冒険気分が味わえるのは、
いつか過去の自分の想像を越える日がやってくるのは、
やっぱり、質問してすぐ答えがでるような理屈やこれが正解、
なんてものじゃないほうだと思うし、

なんでも決めつけずに飛び込んでみるほうが、
そっちのほうが遥かにおもしろいとは思う。




--------- 題名忘れたが、昔読んだ本。抜粋したもの

アボリジニは、子どもを個人が成し遂げたものを永続化するための手段とは考えていない。子どもは、両親の私的所有物ではなく、両親も、子どもの性格と運命には何の責任も持っていない。子どもは、その誕生を、自然界とその霊的ポテンシャルに負っているのだ。子どもにとって、真の家族とは、部族全体である。部族民全員には、共通の出自がある。その出自こそ母なる地球にほかならないのだ。
したがって出産とは、アボリジニ女性にとって、さほど重要ではない。何をおいても果たさないといけない役目というわけではないのだ。彼女たちにとって一番大切なのは、人間社会と宇宙との調和に加え、人間と霊的エネルギーとの調和を社会の中で保つことである。アボリジニ女性とは、地球を、生命を養い育てる発生場のまま保っている、聖なる態度の背後に潜む力なのだ。


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