ring.71 チェイン・ジ | 魔人の記

ring.71 チェイン・ジ

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正文は震えている。
小刻みに震えている。

太く大きな全身だけでなく、床をぼんやりと眺める左右の眼球も震えていた。

(俺は知っている)

全身と眼球とでは震えの動きにズレがある。
周期や方向が明らかに異なる。

ふたつの震えはこすれ合い、発火した。

(俺は知らない)

この火とは、強烈な違和感である。
それはまたたく間に正文の心を焼いた。

「……っ! …!」

彼は苦痛に胸をかきむしり悲鳴をあげようとする。
だが両手は動かず声も出せない。

行き場をなくした苦痛から逃れるため、正文の生存本能が急速に活性化する。
それは彼が知っていること、そして知らないことへの答えを、胸中に産み落とす。

(ワープだ)

ここでようやく、正文は呼吸できるようになった。
彼自身も認識できていなかったが、今の今まで彼は窒息していた。

呼吸の再開により、生存本能の活性化がゆるやかに収まり始める。
正文は次第に冷静な思考ができるようになった。

(そう、ワープだ…謎のワープ……! 俺はこれを知っている! でも、いつどこで知ったのかはわからない。わからないといえば、俺はここに来る前に何があったのかを知らない…!)

ここまで考えたところで、正文は脳がぎゅるりと動く音を聞く。
胸中の苦痛が認識の全てだった頃には止まっていた頭が、先ほど起こった出来事を心に流し込んできた。

(プロフェッサーとかいう男と財務次官…殺されたはずなのに蘇った。分隊長の頭は胴から離れたのに元通りくっついた。とても奇妙、『奇妙』だ)

彼が心の中で二度言った言葉。
それが、別の言葉へと置き換わる。

(『変化』)

悪寒がゾワリと全身を走った。
正文は、プロフェッサーの特別な能力がどういったものなのかを、冷汗が吹き出る感覚とともに実感する。

(あの男は奇妙なことを起こせる。『奇妙』はそのまま『変化』、あの男の能力なんだ。ということは、俺が謎のワープについて知っているのも、知らないのも──)

そう思いながら顔を上げた時、プロフェッサーと目が合う。
相手はにっこりと微笑み、正文にこう言った。

「とてもいい顔だ。理解したようだな」

「……!」

正文は目を見開く。
口も開いてパクパクと動いたが、声も言葉も出てこない。

この時、彼の心にはこんな言葉が浮かんでいた。

(…次元が…違う……!)

手から鎖を出せるとか、蛇を操って敵を食い殺せるとか、そんな表面的な能力ではない。
プロフェッサーという男の前では、物理法則はもとより生や死すら意味を失う。

まさに『次元が違う』のだ。
正文は今ほど、この言葉を痛感したことはなかった。

彼には、目の前にいるプロフェッサーが『人の形をした異形』に見える。
その異形が軽い口調で彼に告げる。

「お前が理解したのなら、彼らの出番は終わりだ」

「…?」

「退場の瞬間を見ておくかね? 他国の役人や軍人を、生で見る機会などなかなかないだろう。いわゆるレアキャラというヤツだ」

言い終えると、プロフェッサーはしゃがんだ状態から立ち上がる。
悠然とした足取りで正文の視界から出た。

この行動により、М国財務次官や分隊の様子が正文の目に映る。

「!」

それは新たな驚きを彼に与えた。

(止まってる…!)

まるで彫像のように、あるいは色を失うことなく石化したかのように、М国の人々は固まっていた。

財務次官は分隊に向かって文句を言い、分隊は分隊長を中心に混乱の極みにある。
両者は自分の事情にかかりきりで、相手の事情など考慮していない。

今にも動き、しゃべり出しそうなほどいきいきしたつくりだが、彼らは呼吸すらしていなかった。

「もういいかね?」

プロフェッサーが問う。
正文は、びくりと体を大きく震わせてそちらを見た。

「…?」

何がいいのか彼にはわからない。
ただ首を左にかしげる。

これを見たプロフェッサーは、ごく小さく二度うなずいてからこう言った。

「お前はすでに、大きな理解と重要な認識を得た。それは、お前が今まで得てきたものが全てひっくり返るほどの大事件だ。だから無理はしなくていい。彼らのことはわからなくてもいい」

幻が消えるかのように、М国の人々が消滅する。

「あっ」

正文は思わず左手を伸ばそうとした。
だがその動きは途中で止まる。

彼は不安げな顔でプロフェッサーを見た。
プロフェッサーは正文の心中を察して返答する。

「心配する必要はない。彼らは元の生活に戻っただけだ。財務次官どのはこれからも変わらずキルメーカーを楽しみ、分隊は彼のボディーガードとして立派に職務をまっとうするだろう」

「……よかっ、た…?」

正文は、自分でも何がよかったのかわからないがそう言った。
そして言った直後に気絶した。


次に目覚めた時、正文はベッドの上にいた。
部屋の様子を確認するよりも先に、体を包む感触が気になった。

(やけにすべすべする…?)

彼は不思議に思い、手を動かしてみる。
すると、すべすべの原因は布団にあるとわかった。

掛け布団と敷き布団の両方が、シルク製のカバーで覆われている。
その表面が肌に触れることですべすべ感を覚えるのだ。

そこまでわかったところで、正文は新たな事実に気づく。

(あれっ…もしかして俺、服着てない?)

すべすべ感は手のひらばかりでなく、胸部や腹部にも及んでいた。
彼が着ている服はどちらかといえばさらさら系統の感触であり、裸で寝ていなければ体の中央部ですべすべ感を覚えるはずがない。

正文はそれを確かめるため、右手を掛け布団の上端へ移動させる。
上端は首のすぐ下にあり、持ち上げてあごを引けば胸部周辺の様子を両目で確認できる。

(どういうことなんだ…?)

彼は不思議に思いつつ、右手で掛け布団の上端をつかもうとした。

「ちょい」

誰かの声がして、手首をつかまれる。

(えっ?)

正文は驚き、声と小さな手の持ち主がいる方を見た。

「めくったら寒いやろ」

特徴的な方言が聞こえ、ピンク色の髪が彼の視線を奪う。
遅れて持ち主の顔に目を向けると、そこには不機嫌そうな表情が浮かんでいた。

正文は、その顔に見覚えがある。

「えっ!?」

彼は大声を出しつつ、体を引く。
その動きは自身の想定よりもはるかに大きく、ベッドから転げ落ちてしまった。

(い、今のは…)

転げ落ちた体勢のまま、正文は動けない。
しばらくすると、誰かがそばに下りてきた。

「おっさん、なにしとん」

誰かとは、掛け布団で素肌を隠したα7だった。
不機嫌そうだった表情は、いつの間にか呆れたものへと変わっている。

正文は動けないまま、なんとか口を開いて彼女に問うた。

「あ、α7? こっ、これ、これはどういう?」

「安心しィ。おっさんの純潔には手ェ出しとらんから」

「じゅ、純潔って」

「まさか経験ずみとか言わんよな? そんだけ非モテのオーラ出しといて、女抱いたことあるなんて言わせへんで」

「……そ…それは……」

正文は口ごもる。
その間も、ベッドから転げ落ちた体勢のまま動けない。

これにα7はいらだちを見せた。

「あーもう」

彼女は、素肌を隠していた掛け布団から手を離す。
掛け布団が床に落ちて、白い肌があらわになろうとしたその時──


「はっ!?」

正文は球状の部屋に戻ってきた。
場の状況は、彼が気絶する前と全く同じだった。

「楽しんでもらえたかね?」

プロフェッサーの声がする。
正文は、座ったまま体を動かしてそちらを向いた。

相手の顔を見た瞬間、彼は理解する。

(あっ…そうだ、あれは『奇妙』……つまり)

「その通り、私の能力だ」

プロフェッサーが楽しげに笑う。
これに正文はカチンときた。

今までのふがいなさを押し隠すように、あわてて立ち上がる。
プロフェッサーに静かな怒りを吐き出した。

「今のはなんだ…!」

「おやおや、これは思わぬ反応だ。私としては、ちょっとした褒美のつもりだったのだが」

「褒美だって?」

「褒美なら最後まで楽しませろ、とでも言いたげだな」

プロフェッサーが苦笑する。
彼はすぐに逆接の言葉を続けた。

「だが私の話はまだ終わっていない。最後まで楽しまれては話どころではなくなってしまう」

「そういうことを言ってるんじゃない!」

「熱くなるな。私が本能を刺激してやったからこそ、お前は話を聞ける状態になったのだ。その怒りも、私がくれてやったようなものだぞ」

「話、話って…! あんたは俺に、何の話をしようとしてるんだ!」

「それだけ元気ならもう大丈夫だろう」

プロフェッサーは、正文に向かってすっと右手をかざす。
それから静かに告げた。

「記憶の封印を解く」

「なに?」

「『成長の塔』…いや、お前にはこちらの方がなじみ深いか? 『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』」

「……! その名前……」

「そこでの記憶を保持したまま私の能力を知れば、お前の心が壊れる可能性があった。だからこうして手順を踏んでやっている」

「う…!?」

正文は突然、両手で頭を抱えた。

脳を圧迫するような不快感が、現れては消える。
それはまるで頭蓋骨ごと頭をもまれているかのようであり、『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』での記憶がじわじわと認識の中へ漏れ出てきた。

「ぐぅおおっ! こ、これはッ!?」

「人の心……いや、お前の心が繊細なのはよく知っている。二度も壊しはせんよ」

「二度…? 何を言っている!」

「さあ、思い出すがいい。そして私の起こした『変化』がどれほどのものか、あらためて知るのだ」

プロフェッサーは、正文に向けてかざしていた右手を引く。
それから両腕を大きく左右に広げる。

正文を襲う不快感が、さらに強まった。

「うおおおおおおおおッ!?」

彼は立っていられなくなり、床にひざをつく。
両手で頭を抱えたまま、体をねじりあるいは倒れ、苦悶に沈むのだった。


→ring.72へ続く

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