ring.37 ウュシビ | 魔人の記

ring.37 ウュシビ

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タワーマンション『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』の1階には、美術品がそこかしこに配置されている。
内装も格調高く、それらをしっかりと引き立てていた。

この場所を写真に撮り「歴史ある西洋の城の中だ」と嘘をついても、おそらく誰も疑わないだろう。
それほどまでに美しく、また荘厳だった。

シャンデリアひとつとってみても、まるで天使たちが光をともなって天から下りてきたかのようである。
金縁の額に入った絵画の値段がいかほどか、一般市民には想像もつかない。

壁はふりそそぐ光を受けて、ベルベットを思わせるかすかな羽毛感と光沢を空間へ返す。
石床までもが照明をよく反射し、自分も美術品のひとつだとでも言いたげに表面を輝かせていた。

ただそれは、数刻前までの話である。
今、石床にはあぶら汚れが付着している。

あぶら汚れは白くかすれた太い帯を形作り、どこかへ向かって長く伸びていた。

この帯が作り出す軌跡は、直線とも曲線とも言い切れない。
そのどちらをも含んだ、極めて生物的な道筋だった。

「……んぐっ、ごぶっ、がぶっんっ」

そんな道筋の先から聞こえてくるのは、生物にとって欠かせない行動──食事の音である。

「ずずっ、ずずぶずずずっ、ぶじゅっんぐっ」

かじり、すすり、飲み下す。

「げぇふっ」

飲み込んだもののうち、栄養にならない空気は吐き出す。
空気を吐き出した後でさらに食べ進める。

「がぶっ、ごふぐふ…んじゅるるるっ」

それらの行動全てに、濁った音がひもづいている。
マナーと呼べるものが全く存在しない、獣じみた食事だった。

獣が自ら仕留めた獲物を食べているのであれば、外野がとやかく言う必要はない。
しかしここで食事をしているのは、人の形をした存在だった。

「ぷはあっ!」

正文である。
彼は無我夢中で、目に映った食べ物という食べ物を食べ散らかしていた。

コンシェルジュカウンター前で目覚めた正文は、カウンター横のラックに気づいた。
そこには『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』のパンフレットがあった。

パンフレットには、このタワーマンションを建てる上で軸となった理念や、居住区画以外の詳しい紹介などが載っていた。
その紹介の中に、カフェやレストランがあったのだ。

(…マンションの中に食べ物屋があるなんて…すごすぎる)

奇しくもカフェは1階にあった。
正文は立てない体を引きずり、石床にあぶら汚れの白くかすれた太い帯をナメクジのように残しつつ、必死にその場所を目指した。

カフェに到着すると、彼は誰に遠慮することもなく厨房の中に入った。
そして業務用の冷蔵庫を勝手に開け、貯蔵されていた食べ物を貪り始めたのである。

果物や牛乳、作り置きの料理などを一心不乱に食べ散らかした結果、正文はようやく思考するだけの理性を取り戻した。

(普通のマンションじゃこうはいかないよな…)

理性を取り戻しはしたものの、食事の手は止まらない。
彼が自分の意志で、いつ食べ終わるのかを決めるのはまだ無理だった。

(ここがすごいとこでよかった。食べ物があってよかった……!)

正文はとにかく食べた。
食事にありつけたことを心から喜びつつ、獣じみた食欲を全て開放した。

業務用冷蔵庫の中にある食べ物をあらかた食い尽くし、残るは小麦粉や調味料ばかりとなったところで、彼はようやく食事を終えた。

「ぶふゥー……」

正文は大きく息を吐く。
その後で、座った状態のまま両手で軽く厨房の床を押した。

大きく太い体を、ほんのわずかだけ浮き上がらせる。
そして冷蔵庫の側面から続く壁に身を寄せた。

壁に背を預けると、その流れで後頭部も壁につける。
彼は厨房の照明を見上げながら、ぼんやりとこんなことを考えた。

(シャレてらぁ…)

正文が目にした照明はダクトレール式だった。
天井に設置されたレールの内側に電流が通っており、レール内ならどこでも照明器具を取りつけられる。

ダクトレール用の照明器具は、コンパクトで洗練されたデザインのものが多い。
この厨房にある照明も例外ではなく、黒い小さな円筒形のライトはとてもおしゃれだった。

(客からは見えないのに…シャレてらぁ。さすがだな……)

意識の高い照明器具に、正文は賛辞を送る。
その後で何気なく下を向いた。

「うわ」

思わず声が出て、ぼんやりとしていた意識が一気にはっきりした。
冷蔵庫周りは彼が食べ散らかした残骸であふれ、およそおしゃれという言葉からかけ離れた状況だった。

(こりゃちょっと片づけないと…かた……づ…け)

正文は立ち上がろうとするが、それよりも先にまぶたが下りてくる。
ドカ食いの影響で、意識がたちまち遠くなった。

「…ぐう」

彼は座ったまま寝始めた。
人間としての死を食らいつくしても、体からの要求には抗えなかった。


正文が目覚めたのは、それから約2時間後だった。
獣じみた食事が功を奏したのか、体力は回復し立ち上がれるようになっていた。

彼はまず、寝る前からの懸案事項だった片づけに取りかかる。
生ゴミやその他の燃えるゴミはゴミ箱に入れ、保存容器や皿はシンクに水を溜めたボウルを置いてそこに沈めた。

(簡単で悪いけど、俺も急ぐからさ…)

正文は心で言い訳をしつつ、逃げるように厨房を去った。

ホールに出た彼は、あらためて店内を見渡してみる。
厨房に侵入した時と同じく客はおらず、眠っている間に誰かがやってきた形跡もない。

(確かパンフによると…住んでる人用のカフェなんだったな、ここは)

カフェはエントランスから最も奥まった場所にあり、居住者とその関係者以外の気軽な来店を拒絶している。
大きな窓を隔てた先にはテラス席があるものの、その向こうもタワーマンションの敷地内だった。

(外と直接つながってる場所がない。金持ち専用の、閉じられた世界ってことなのかもしれないな…)

外観を眺めていた時以上の衝撃を受けつつ、正文はカフェを出ていった。


カフェを出た正文は、ズボンのポケットからパンフレットを取り出す。
彼が雑にポケットに突っ込んだのと、その状態のままカフェまではいずったため、パンフレットは見るも無惨なまでにくしゃくしゃだった。

それでもページを伸ばしてやれば、内部の案内マップを読むことはできる。
1階にはカフェ以外にも、ラウンジやエレベーターホールがあるようだ。

(御堂と下野は最上階にいるはず。行くべきはエレベーターホールなんだろうが…)

正文は敢えて、エレベーターホールに続く分岐を通り過ぎる。
そしてある場所で足を止めた。

(わからないのはコイツだ)

ある場所とは、コンシェルジュカウンター前である。
カウンターの向こうに『総合世話係』たるコンシェルジュはいない。

その代わり、カウンターの上には白い猫が鎮座していた。
正文の目当てはこの猫だった。

「…お前、何者なんだ?」

正文は白猫に問う。
最初から、普通の猫とは思っていない。

「何か知ってるんだろ? じゃなきゃ、こんなとこにいきなり猫なんか出てこない」

「……」

白猫は、正文を眺めるだけで他には何の反応もない。
これを見た正文は、少し考えた後で再び口を開いた。

「俺は蛇たちの力を使って、外から上ろうとした。でもあとちょっとってところで落ちた…落とされたんだ。チグサレとしての力も、鎖も出せなくなった」

「………」

「落ちた先はフェンスの上だ。槍みたいな飾りがあった。目の前に切っ先がきたとこまでは憶えてるけど、その後は真っ暗…ほんとなら死んでたはずだ。でも俺はこうしてここにいる」

ぼやけた光景については言わずにおいた。
敢えて伏せることで、白猫が別の反応をするかもしれないと期待したのである。

「お前、何か知ってるんじゃないのか?」

「ぷふ」

白猫は初めて、正文を眺める以外の行動をとった。
小さな鼻から息を出した。

息を出した時に鼻水が一瞬だけ小さな風船となり、それが破裂して半濁音を生んだのだ。

「…!」

正文は身構える。

彼自身、人食いの異形に変化した。
白猫が人語を口にする可能性も大いにあると考えたのである。

だがその期待は大きく裏切られた。

「……」

白猫はカウンターの上で寝そべり、右前足の肉球を何度かなめて手入れする。
それが終わると、今度は体をねじって背中の毛づくろいを始めた。

やがて気がすんだのか、右前足の上にあごをのせるとまぶたを閉じてしまった。

「え…」

肩透かしをくらった正文は、驚きの表情で白猫を見つめる。
ただどれほど見つめても、相手は鼻先すらこちらに向ける様子がなかった。

(…くそっ、なんにもなしかよ)

正文はいらだちと落胆を顔に出す。
ぼやけた光景について敢えて伏せるという渾身の策が、何やらとても不純なものに思えて仕方なかった。

心のモヤつきを振り払うため、彼はカウンター前から離れる。

(とにかく、今は進まないとな)

一度は通過したエレベーターホールに向かって歩き出した。
その途中、正文は振り返ってカウンターをチラリと見てみたが、白猫は寝息を立てるばかりだった。


エレベーターホールは、エントランスからカフェへ続く廊下の途中に分岐があり、そこを曲がることで行ける。
奥へ入り込む分、居住者以外の目に触れにくくなるというわけだ。

ホールの中央には、きめ細かさと風格を兼ね備えたカーペットが敷かれている。
エレベーターは8基あり、そのうち4基が高層階直通だった。

搬入用にはまた別のエレベーターがあるようだが、このホールからは見えない。

(こ、コンビニとか行って帰ってくるだけでも、スーツとか着なきゃいけないんじゃないか? ここ…)

キルメーカーの東部拠点・旧園田邸も、過去に文化財の指定を受けただけあって高級感はあった。
しかしここはそれをはるかに上回る。

エレベーターホールは居住圏内であり、つまりは家の一部といってもいい。
そんな場所において、正文はドレスコードを強制的に意識させられた。

彼はこれまで、ドレスコードを課されるレベルのレストランに行ったことなどない。
ドレスコードに全くなじみのない者が、それを意識しなければと義務感を覚えるほどに、このエレベーターホールの演出は完成されていたのだ。

正文が当初の目的を瞬間的に忘れたとしても、それは無理からぬことといえた。
とはいえ、彼も観光でここへ来たわけではない。

(しっかりしろ、俺!)

正文は両手で自身の頬を叩き、気を取り直す。
それから最も近くにあるエレベーターのボタンを押した。

「……」

しばらく待ってみたが、エレベーターが動く気配はない。

(そりゃそうだよな)

正文はあっさりと納得した。
エレベーターが普段通り動くのであれば、先発隊がもう御堂を救い出していてもおかしくない。

そう考えると同時に、彼は別の可能性についても思考を巡らせていた。

(動くのが罠って可能性もある。乗ったらそのままやられるパターンだ)

正文は試しに残り7基分のボタンも押してみたが、どれも反応はなかった。
残念な結果だが、特に気落ちすることはない。

(ここでエレベーター待ってる方が緊張するよ。さっさと非常階段を見つけよう)

あまりの高級感に気おくれしつつ、彼はエレベーターホールから離れた。
非常口を示す緑ランプに従い、裏手に回る。

そこは、先ほど開けられなかった非常用ドアの反対側だった。
ドアの脇に、灰色のコンクリートでできた無機質な階段がある。

(まさに非常階段って感じだ。見てて安心するよ。さてと…!)

正文は非常階段を上る。
2階への中間、踊り場に足をかけたその直後だった。

「…えっ!?」

彼は驚愕し声をあげる。
踊り場に足をかけたはずが、体がその一歩前で止まっている。

(なんだ…? なんだ、これ!?)

実際の位置と目に見えているものが、一歩分だけズレている。
それは微妙というにはあまりに大きなズレだった。

さらに進もうとするが、体が踊り場に到達できない。
だというのに、視覚は踊り場以降の景色を見ている。

(おかしいぞ、明らかにおかしい! 一体何がどうなって……あっ!)

正文はここで思い出した。
下野の職業がもともと何であったのかを。

(もしかしてこれが催眠術…うわっ!?)

視覚に映る景色が、突然上下逆になる。
正文は、体を踊り場前に残したまま、感覚だけ1階へ転げ落ちていった。


→ring.38へ続く

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