ring.36 クライツ | 魔人の記

魔人の記

ここに記された物語はすべてフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。オリジナル小説の著作権は、著者である「びー」に帰属します。マナーなきAI学習は禁止です。

ring.36 クライツ


正文は、タワーマンションの中に入るため裏手にやってきた。
非常用ドアはすぐに見つけられたのだが、それを開けることはかなわない。

ドアにはカギがかかっており、彼の手ではどうにもできなかったのである。

(マジか…)

周囲を見てみるも、電子的なロックはどこにもなかった。

(これじゃスマートウォッチでどうにかするってわけにもいかないな)

他に手段がないわけではない。
チグサレの力、つまり蛇たちを使えば、非常用ドアを無理やり破ることも可能ではある。

しかし正文はそうしようとは考えなかった。

(ドアを壊せば下野に気づかれる。俺はまだ建物の中にすら入ってないんだ…今気づかれたら、俺が最上階に着く頃には、御堂とかいう女優がどうなってるかわかったもんじゃない)

彼はタワーマンションを見上げる。

(建物としては確かにめちゃくちゃ高いけど、直線距離で見ればそうでもない。少なくとも、一坂東部から北部や西部まで行くことに比べれば、はるかに短い)

よし、と正文は誰ともなしにうなずく。
それから後ろを向き、建物から離れた。

10歩ほど進んだところで彼は足を止める。
再び後ろを向き、建物と正対した。

「いくぞッ!」

正文が気合いの声を発すると、彼の背中から8匹の蛇が姿を現した。
直後、8匹全てが倍以上の太さになる。

さらに蛇たちの1匹が、正文の太った大きな体をひょいとすくいあげ、自身の上に乗せた。
正文の背中から地上に向かってカーブしている蛇の体は、そのまま正文専用の背もたれになる。

「短期決戦だ」

チグサレの力を開放した正文が、蛇たちに語りかける。
直後、勇ましく号令を発した。

「さっさと終わらせて狩りに行くぞ!」

「シャアアッ!」

蛇たちは主人の声に応え、体をうねらせて地面を進む。
タワーマンションの外壁に正面から接近した。

激突寸前で向きを真上に変え、外壁を上り始める。
正文の体は地面と平行になるものの、背もたれのおかげで落下することはなかった。

「シャアアアアアアアアッ!」

8匹の大蛇が、まるで雄叫びをあげるかのように音を発しながらうねる。
天に向かって進む速さは、地上での高速移動と全く変わらない。

つまり正文たちは自動車顔負けの速度で、タワーマンションの外壁を垂直に駆け上がっているのだ。

具体的にどれくらい速いかというと、10階へ到達するのに3秒とかからない。
階段を上るよりはるかに速いのは当然として、同じ垂直移動のエレベーターですら彼らに追いつくのは不可能だった。

「……」

号令をかけ終えた正文は、黙って目を細めている。
高速移動によって起こる向かい風で眼球が乾燥しないよう、まぶたの開きを小さくしている。

その脳裏で、α7が言った言葉を思い返していた。

”御堂はスキャンダルで一坂送りにされたけど、今回生還できれば新しい人生が約束されとる……”

(新しい人生、か)

正文の唇が、左側だけわずかに上がる。

(俺の人生…『人間としての生』は、一坂で終わった。今じゃ人間どころか人食いのバケモノだ)

どこか自虐めいた笑みができあがる。

(そのバケモノが、知りもしない女のために力を使ってる。まあ、別の女に脅されたから仕方ないんだけど、どっちにしたって妙な話だ…でも)

彼の顔からふわりと力が抜け、笑みは自虐だけを失った。

(助けられるんなら、助けたいよな)

青臭い気持ちを、胸の奥に感じる。
それを気恥ずかしく思いながらも、悪い気はしない。

(α7から聞いたスキャンダルには、確かに驚かされたけど…別に俺がつらい目に遭わされたわけじゃない。それに俺だって今まで間違ってきた。自分の失敗を誰かのせいにしてきた…いや、しまくってきた)

α7に脅迫されたから、仕方なく依頼を遂行する。
そんな理由とは別の思いが、正文の中に生まれた。

(俺みたいなおっさんが、若い子にやり直しのチャンスをあげられるっていうんなら…がんばってみるのも、悪くはないはずだ)

人間で言えば、正文は40代の半ばに達した中年男性である。
この年代になると、ほとんどの者は心身の衰えを自覚するためか、人生に対する危機感を覚えるようになる。

それは思春期にも似た強烈な衝動で、このままでいいのかと自分を追い込むことも珍しくない。
衝動をうまくコントロールできれば全能感とともに新たな観点を得られるが、失敗すれば犯罪に走ることもある。

正文はこれまでの経験から、この衝動をコントロールできるようになっていたようだ。
そしてそれはきっと、チグサレという強大な力を得たことと無関係ではないだろう。

コントロールに成功したことで、正文は『後進の若者たちに何かを残したい』というこれまでにない感情を手に入れた。
それが依頼以外の動機となって、彼を御堂救出に駆り立てていたのである。

(下野サンよ…)

正文は、今回の敵である下野に思いの矛先を向けた。

(あんたもいい大人なんだからさあ、偶然会えたからって彼女をさらうことはなかったろ)

彼と蛇たちはすでに40階へ到達しようとしていた。
最上階まで残り10階ほどである。

決戦の時は近い。
下野に思いの矛先を向けるのは、戦意を高める意味があった。

(ほんとに好きな相手なら、これからの幸せを考えてあげるとかさ……ん?)

正文は異常に気づく。
40階を過ぎた先の外壁から、何か白いものが伸び出てきた。

白いものは人の形をしており、正文と同じく地面に対して平行な立ち方をしている。
ただし正文とは違い、何の支えもない。

つまり白いものは、重力を完全に無視している。
その上で、外壁に足をつけて立っている。

(下野の攻撃か?)

正文はすぐさま戦闘に備えた。
みるみるうちに距離は縮まり、相手の姿がはっきりとわかるようになる。

それは、小学生くらいの子どもだった。

「!」

正文の中に、α7から言われた言葉がよぎる。

”報告によると、そのタワマンに身元不明のガキんちょがおるらしい”

繰り返すが、大蛇たちの速度は自動車顔負けである。
正文がα7の言葉を思い出した時にはもう、彼と大蛇たちは少年の体を突き抜けていた。

突き抜けた直後、少年が消える。
そしてなぜか大蛇たちも消えた。

「…あれ?」

正文の上昇がゆるやかに止まる。
かと思うと、逆向きに進み始めた。

「あれ?」

体が背中側へ引っ張られる。
たちまち速度が増す。

「あれっ!?」

頭はいつの間にか下を向き、凄まじい突風が脳天から足下へ吹き抜ける。
体の中にある内臓という内臓が全て、足側に引っ張られる。

「あれぇええええええッ!?」

正文が長くあげた声は、もはや悲鳴だった。
彼はタワーマンションのすぐ横を、なすすべもなく落下していく。

「へ、蛇ぃ!? 蛇たちぃいいいいいいいい!」

正文は必死に呼びかける。
だが、蛇たちの反応はなかった。

背中に意識を飛ばしても、力を入れても、何の手応えもない。
蛇たちが無理なら鎖はどうかと能力の切り替えを試みたが、何も出てこない。

人食いの異形『チグサレ』は、ただの太った中年男性らしき物体に変わり果ててしまった。

「う、ウソだッ! こんなのありえない!」

空中でわめく間にも、正文の体は地面めがけて真っ逆さまに落ちていく。
ただしその軌跡は、必ずしも直線ではなかった。

タワーマンションの周囲に吹く横風は勢いが強い。
太った大きな彼の体すらも、住居部分から離れる方向へと流した。

頭が下を向いている正文には、その先にあるものがよく見える。

「おい待ってくれ! ウソだろ!」

地上で彼を待つのは、タワーマンション裏手と池部分とを隔てるフェンスだった。
その上部は、乗り越え防止のため長く突き出て鋭くとがっている。

まるで何本もの槍が、池の周りに並んでいるかのようだった。

「ちょっと、待っ……」

正文は、自分の言葉を最後まで言うことができない。
このままではフェンス上部の槍に刺さると認識した時にはもう、切っ先が目の前にあった。

その向こうは闇である。

どこか遠くで、
やけに近くで、
肉の裂ける音がした。


──誰かが、泣いている。
泣き声が聞こえる。

(…なん、だ…?)

いつの間にか闇は消えていた。
しかし、何もかもがぼやけて周りの状況がわからない。

色はわかる。
茶色が視界の大半を占め、その次に緑色、空色、さらに他の色が続く。

「うぇ…えええん……ぇええ………」

泣き声もとぎれとぎれで、誰のものかは判然としない。
ただ、聞き覚えはあるような気がした。

(なにが…何が起こった? 俺は、いったい……)

体を動かそうとするが、指の1本も動かない。
力は全く入らず、まばたきすらできずにいる。

そのうちに、泣き声が近くなった。

「ごめん…ごめんね、うぇえええ……」

(…なんで謝ってる? あんたは俺に、何を……)

心で問いかけようとした時、泣き声の主がこう言った。

「……ごめんね、まぁくん」


何か小さいもので、顔を殴られた。
一撃の後、続けて3発殴られた。

「いてて!?」

両手で顔をかばいつつ、体を起こす。
殴打はそこで止まった。

「……???」

混乱しながらも、両手をゆっくりと顔から離す。
視界の右側に何か白いものが見えた。

あわててそちらに顔を向ける。

「…猫?」

白い毛を持つ猫がいた。
その白猫は全身を左に傾け、右前足だけをあげた状態でピタリと動きを止めている。

やがて白猫は右前足を下ろし、つまらなそうに顔をそらした。
どこか別の方へと歩いていく。

目で追っていくと、白猫は壁のような場所へ行きそこでひょいと跳躍した。
壁の上には台があり、そこからこちらを見下ろしてくる。

少しばかり視線を猫から外す。
壁と台は合わせてひとつの家具であり、カウンターだというのがわかった。

「えっ…?」

とにかく状況を知るため、立ち上がろうとする。
だが足に力が入らず、座った体勢から先へ進めない。

(なんだ? 何がどうなってる? 一体ここはどこ……あっ!?)

周りを見回そうとした時、ある文字が目に入った。

『GRANTOWER UNO PENDIO』

それはタワーマンションの名称、『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』である。
40階もの高さ、しかもフェンス上部の槍に落下したはずの正文は、なぜか1階コンシェルジュカウンター前で目覚めたのだった。


→ring.37へ続く

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