海彦の本居宣長研究ノート「大和心とは」については、こちら から。

今回は、身近にある“もののあはれ”について書いてみたいと思います。

注: “もののあはれ”については、こここここちらこちら も参照。

宣長によると、対象である物(モノ)の心、事(コト)の心を、自(みずか)らの心で味わい、それを明らかに知って、その事(コト)の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものを、“もののあはれ”というのです。

しかし、どうもこれだけではイメージがつかみずらいところもありますので、以下に具体的な例を挙げて説明したいと思います。

例えば野原を歩いていて、一輪の黄色い花(実はヒマワリの花)に出くわしたとします。そして、その花びらの黄色い色の鮮やかさに、一瞬驚かされたとします。

このとき、即座に「何だ、ヒマワリ(向日葵)か。どうりで黄色いわけだ。」と、そのまま足早に立ち去ってしまう人と、「目に染みいるように鮮やかだな!」と、感慨深げにそこに立ち止まって、しみじみと眺める人がいたとします。

前者の人は、出会った一輪の黄色い花を、即座に「ヒマワリ」という植物の分類名に置き換え、黄色い色の鮮やかさに驚かされた理由を、「ヒマワリは黄色い」という一般常識に当てはめて納得し、「当たり前のことだ」と結論付けています。

このように、出会った物(モノ)や事(コト)を、即座に既成の概念・観念に置き換え、世間の常識といった一つの世界観の中に位置付けて判定し、納得してしまうような性向を、宣長は"漢意(からごころ)"と名付け、これを取り去らない限り、“もののあはれ”は感じられないと、強く警鐘を鳴らしました。

でも考えてみれば、そもそも「ヒマワリ」という名称にしても、「花」や「黄色」という言葉にしても、すべて人間が作った概念であり、そこに存在する物(モノ)自体には、本来何の関係もない、後付けの架空の観念にすぎません。世界を体系付けて理解するために、仮に名付けているものであり、そのような名称や観念が、実物に先立って存在していたわけではないのです。

つまり前者の人は、このとき自分の頭の中で作られた架空の既成概念や観念、すなわち自分自身の理屈に出会っているだけで、黄色い花の生きた実物には、徹頭徹尾出会っていないのです。

それは、頭の中にある死物に過ぎず、みずみずしく躍動する生きた生命(いのち)の実在感などあるはずもなければ、まして、そこから心を動かされるような体験が起こるはずもありません。なぜなら人は、すでに知っている当たり前のものには、何のときめきも覚えないからです。

大事なのは、物(モノ)にじかに触れ、物(モノ)をじかに味わうこと。これなしに、「物(モノ)の心」をつかむことなど、永遠にできません。それをつかむためには、宣長の言う“漢意(からごころ)”という、ことごとしい後付けの概念思考や観念思考を取り去り、生きた実物を、“もののあはれ”を通して生きたままに捉えることが、不可欠なのです。

このように書くと、やはり“もののあはれ”を知るのは、とても難しいことなのだと考えられるかもしれません。

しかし、考えてみれば、上記の前者の人にしても、最初は驚いているわけですから、普段現れないような鮮やかな色が見えた瞬間、ある種の感応は確かに起こっているわけです。

その後、すぐに理屈をつけて納得してしまうことさえなければ、またそのときの感覚に、素直に全身を委ねることさえできていれば、後者の人のように、しみじみとその色を味わい、“もののあはれ”を知ることができたのではないでしょうか。

こうしてみると、驚きのあるところ、“もののあはれ”の種(たね)はあるわけですから、私たちの身近ところに、“もののあはれ”を感じることのできる瞬間は、数多く存在しているのです。

要は、本当にちょっとした違いなのです。

ところで前者の人ように、長い間の習慣というか、何かに出会っても、条件反射的に理屈で考えてしまう癖がついてしまっている人でも、その癖を少しずつでも矯正できれば、目に映る世界には、“もののあはれ”が数多くあふれていることに、必ず気づくはずなのです。

その矯正方法については、以前、「もののあはれ」を知るには?(その二) に、ほんの少しだけ書いてみましたので、よろしければ読んでみて下さい。何らかの参考になれば幸いです。

長くなりましたので、今回はこれで終わります。