海彦の本居宣長研究ノート「大和心とは」については、こちら から。
「もののあはれ」を知るには?(その一)については、こちら から。

今回は、「もののあはれ」を知る具体的な方法について書いてみたいと思います。

宣長は『あしわけをぶね』に、以下のようにいいます。

「此(この)道(=歌道)をこのみ、古歌に心をそめ、行住坐臥これに心ををく時は、自然と古人の歌に化(か)せられて、情辞(じょうじ)ともに自然ノ如(ごと)くになるなり。」(原文の仮名はカタカナ)

つまり、万葉集をはじめとした古歌を読み、日常の立ち居振る舞いの中でその歌に心を置くとき、自然と古人の歌に教え導かれて、情(こころ)も辞(ものの言い方・表現)も共に、モノやコトにふれてしなやかに動くという本来の自然な働きを取り戻していくというのです。

そして、心がコトにふれて動くという本来の働きを取り戻せば、「はかなき花鳥の色音にも涙のこぼるる計(ばかり)」(石上私淑言)に、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけて、そのあらゆる事(コト)を心に味えて、そのあらゆるの事(コト)の心を自分の心でありのままに知ることができるようになります。

ちなみに宣長は、「もののあはれ」を知る具体的な実践方法については、およそ以下のようなやり方を薦めています。

①紫式部の「源氏物語」や「万葉集」のような、「もののあはれ」を感じることのできる物語や歌を繰り返し読む。
②同時に、日々の生活の中で、モノやコトにふれてしみじみと感じた感慨を歌に詠む。(上手下手関係なく、まめに詠みつづけることが大切。)

②については、宣長はその言葉通り、生涯に亘り、生活の中で折にふれて感じたことを歌に詠んでいて、その数はおよそ一万首に上ります。ただし、歌の出来については、師の賀茂真淵(かものまぶち)からひどく酷評されていますが、めげずに詠み続けました。

宣長は、人に読ませるためでなく、自分が「もののあはれ」を味わうために書いていたので、酷評されても気にしなかったのですね。また、自身のライフワークとして「本居宣長」を書いた小林秀雄は、宣長に倣い、晩年、事にふれて感じたことを、文章にして短冊のようなものに書いていました。

これらは、少しやる気になれば、現代に生きる私たちにも容易に実践できる方法だと思います。

ただ、気をつけなければならないのは、大事なのは、モノやコトにふれて心が動き、その刹那に生まれた「情」を受け身になって味わうことであって、歌や短文を書くことが目的になってはいけません。歌の形にするために、感じてもいないことを無理やり書いてみても、あまり意味はありません。

「もののあはれ」を深く感じるためには、前回にも書きましたが、この「味わう」という姿勢がとても大切です。

自分の心をあたかも空っぽの「器(うつわ)」のようにすると、対象のモノ・コトのもっている固有の味わい、すなわち「性質情状(あるかたち)」が、そこに流れ込んでくる。その味わいを、あたかも少し離れたところから眺めるように、ありのままに感じる。対象と心は一体となりながらも、もう一人の自分の目が、それをしみじみと眺め味わっているといった感じでしょうか。

こういった感じ方が習慣化し、自然にできるようになってくると、例えば本を読んでいても、読み方が変わってきます。書かれている文章の論理を追うのでなく、文章の「あや」をじっくり味わうような読み方になります。「結局何が書かれているのか」を知るための概念的・観念的理解に対する欲求が薄くなり、助詞や助動詞といった「辞(ものの言い方・表現の仕方)」の微妙な変化にも、心が鋭敏に反応するようになります。

表現が難しいですが、あたかも文章を「舌の上でじっくり味わう」といった感じでしょうか。

人の話を聞いていても、こうしたやり方で聞くと、話し手の心の動きが、深いところまで手に取るように分かるようになります。「結局何が言いたいのだ」という論理的理解だけでは聞えてこない話し手の声が聞えてくるのです。

このように、日常の中で出会うモノやコトに接する姿勢を、ほんの少し変えるだけで、「もののあはれ」は格段に感じられるようになってきます。

自分自身も、この方法を実践することで、日常生活のほんの些細なことの中にも、新鮮な味わいを感じることが増えたような気がします。

子供のころ、毎日が新たな発見に満ちていて、一日がとても長く感じたあの感覚が、少し戻ってきたような感じです。

皆さんも、一度試してみてはいかがでしょうか。

長くなりましたので、今回はここまでにします。