早いもので、今年ももう梅雨の季節になりました。

このブログの更新が滞っている間に、世の中、コロナによる疫病が蔓延し、大変な事態になっています。

幸いわが国では、現在第一波は少し落ち着いてきていますが、まだまだ第二波、第三波の到来も予測され、気の抜けない日々がこれからも続きそうです。

実は、このブログでしばしば採りあげている万葉歌人 大伴家持(おおとものやかもち)の生きていた天平の時代にも、大変な疫病の流行があり、当時の日本の総人口の25~35パーセントにあたる、100万~150万もの人々が天然痘の感染により死亡したとされています。感染源は、外国船であったということです。

有名な東大寺大仏殿の盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう・奈良の大仏)も、天平の疫病大流行の後、聖武天皇の命により建立されたのでした。

こういった疫病などが流行すると、現代の私たちの衣食住をはじめとした生活や経済基盤が、実に危うい平衡の上に成り立っており、いかに有事に脆い仕組みであるかを思い知らされます。

生活だけではありません。日々続々と発表される死者の数を見ていると、私たちの生命(いのち)そのものが、朝露や蜻蛉(かげろう)のごとく儚(はかな)い存在であることに、あらためて気づかされます。最近まで元気だった人が、理不尽にもあっという間に黄泉(よみ)の国に旅立ってしまうわけですから。

「無常」という使い古された言葉が、単なる字句の意味を超えて、肌身に迫ってくる感があります。

ところで、最近あるお方から、以前書いた『大伴家持の歌-存在の悲しみ』

 

 

についてのご感想をいただき、お返事を書いたのですが、その内容が、「無常」というテーマと深くつながるところがあり、以下に私からのお返事の文章のみを、一部編集・加筆して掲載してみたいと思います。

 

 

(お返事)

ひと月くらい前でしょうか、私も急に言い知れぬ寂しさが心の奥底からこみ上げてきて、周りに見えるものが光を失い、すべて色が変わってしまったように感じられる体験をしました。それは言葉では言い尽くせない不思議な体験で、これといった思い当たる原因がないのに、ただただ寂しいのです。寂しさから逃れようと、必死で帰る場所を探しますが、それが全く見当たらないのです。

自分の周りにあるもの、いや自分の存在も含めて、すべて風の前の塵(ちり)のごとく飛び去ってしまうというか、ありとあらゆるものが刻々と変化し、終いには消えてしまうという、この世の実相が目の前に迫ってきたような、そんな瞬間でした。

この思いはその後数日間続き、心に強い痕跡を残しました。

思うに、人が人生で成し遂げることはすべて、あたかも何も知らない子供が、海辺の波打ち際(ぎわ)で作る砂のお城と、ほとんど変わらないのではないかと思います。いくら一生懸命精巧に作っても、潮が満ちて波が押し寄せると、すべて跡かたなく消え去ってしまいます。残るのは、その微(かす)かな思い出だけ。

私たちの人生も、ほとんどこれに似たものではないでしょうか。

 

 

大伴家持は詠います。

天地(あめつち)の 遠き初めよ 世間(よのなか)は 常なきものと 語り継ぎ 流らへ来たれ 天(あま)の原(はら) 振り放(さ)け見れば 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末(こぬれ)も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜(つゆしも)負ひて 風交(まじ)り もみち(紅葉)散りけり うつせみも かくのみならし 紅(くれない)の 色もうつろひ ぬばたまの 黒髪変り 朝の笑み 夕(ゆふへ)変らひ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留めかねつも (万葉集第19巻 4160番)

【大意】はるか遠い天地の始まりのときから、世の中は常なきものと、ずっと語り継がれてきた。空を仰ぎ見れば、輝く月も満ち欠けし、(あしひきの)山の樹々の梢(こずえ)も、春になれば花が咲き匂い、秋が深まれば露や霜を身に受け、風まじりに紅葉(もみじ)は散っていく。現世の人もこのようでしかあり得ないのか、紅顏(こうがん)もやがて衰え、(ぬばたまの)黒々とした髪も白くなり、朝の笑顔は夕方には失われ、吹く風が決して目に留まらぬように、流れ去る水が決して止まらないように、常なくうつろい行くさまを見れば、庭の溜まり水のように、溢れ出る涙はとどめようもない。

水粒(みつぶ)なす 仮れる身ぞとは 知れれども なほし願ひつ 千年(ちとせ)の命(いのち)を

【大意】水の粒のような仮の身とは知っているけれど、それでもどうしても願ってしまうよ。千年(ちとせ)の命(いのち)を。

 


これらの歌は、そういった、もうどうしょうもない寂しさの極致から、ほとばしるように生まれてきていると感じます。

そして不思議なことに、この歌にこもった生命(いのち)の光は、千三百年もの無常の時を超えて、今を生きる私たちの心を照らす、永遠の輝きを持っています。

家持の歌を読むと、人間存在の根本の情緒に「悲しみ」、すなわち言い知れぬ孤独と寂しさがあるからこそ、人は寄り添いあうし、助けあい、慰めあうのだと思います。彼の詠う「瞬間の美」も、万物が瞬間瞬間滅びつつあるからこそ、滾々(こんこん)と湧き出る泉のように刻々と生まれ、眼前に顕現し続けるのだと思います。

お答えになっていないかもしれませんが、お便りをお読みして、そんな感慨を抱きました。

お読みいただき、ありがとうございました。

今回は、大伴家持(おおとものやかもち)の恋の歌を紹介したいと思います。

大伴家持の恋の歌については、『大伴家持-恋の歌(その一)(その二)(その三)』でも紹介していますが、今回の歌も、家持が妻の坂上大嬢(さかのうへの おおいらつめ)に贈ったものです。

大伴宿祢家持が坂上大嬢に贈った歌一首と短歌

ねもころに 物を思へば 言はむすべ せむすべもなし 妹(いも)と我(あれ)と 手携(てたずさ)はりて 朝(あした)には 庭に出(い)で立ち 夕(ゆうへ)には 床(とこ)打ち払ひ 白たへの 袖(そで)さし交(か)へて さ寝(ね)し夜(よ)や 常にありける あしひきの 山鳥こそば 峰(お)向かひに 妻問(つまど)ひすといへ うつせみの 人なる我(あれ)や なにすとか 一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も 離(さか)り居(い)て 嘆き恋ふらむ ここ思(おも)へば 胸こそ痛き そこ故に 心なぐやと 高円(たかまと)の 山にも野にも うち行きて 遊びあるけど 花のみし にほひてあれば 見るごとに まして偲(しの)はゆ いかにして 忘れむものそ 恋といふものを (巻8-1629)

【大意】つくづくと物を思うと、何と言おうか、どうしようか、わからなくなる。あなたと私と手を交わして、朝は共に庭に下りたち、夕方は寝床をきれいに整えて、仲良く共寝をした夜が幾夜続いたか。山鳥は谷を隔てて向かいの峰に妻問いをするというのに、人間の私は、どうしてこんなに一日一夜を離れているだけで、嘆き恋い慕うのだろう。

このことを思うと胸は痛むのだ。そこで、心がすこしなごむかと、高円の山や野に馬を走らせて遊び歩いてみるけれど、ただ花だけが美しく咲いているばかり。その花を見るたびに、いっそう恋しい思いがつのる。どうしたら、忘れることができようか。この切ない恋というものを。

反歌

高円(たかまと)の 野辺(のへ)のかほ花(ばな) 面影に 見えつつ妹は 忘れかねつも (巻8-1630)

【大意】高円の野辺に咲きにおうかほ花。その花のようなあなたの面影が目の前にちらついて忘れようにも忘れられない。

【注】〇かほ花(かほばな):不詳。昼顔(ひるがお)、かきつばた、むくげなどと言われる。なお、上記長歌および反歌の口語訳は、清川妙『わが心の大伴家持』(星雲社)から引用しました。

 


逢えない苦しさをまぎらわせようと野山を歩くけれど、野辺に咲きにおう花々が、みな愛おしい妻の顔に見えてしまう。恋しい思いは一層つのるばかり。

「いかにして 忘れむものそ 恋といふものを」

この言葉ほど、このときの家持の気持ちをありのままに表したものはないでしょう。

目に映るものまで、その様相が変わってしまう。恋というものの持つ不思議な力。

それにしても、恋というものがひき起す、いくら理性でコントロールしようとしても思うに任せない、自(みずか)らの耐え難い心を、何ら隠し立てすることなく、これほどまでに真に迫った表現で詠った歌というのも、あまりないように思います。

家持のこの思いは、一度でも恋したことのある人ならば、必ず思い当たる節があるのではないでしょうか。そうした、時間を超えた普遍性を、この歌は確実に持っているように思います。

 


人と人が魅かれあう。そこには、あらゆる理由付けや理屈に先行し、それらを超えた別次元の何かが存在しているのではないでしょうか。

まさに家持が、「ねもころに 物を思へば 言はむすべ せむすべもなし」と言う通りです。

江戸時代の国学者 本居宣長(もとおりのりなが)は、それを「もののあはれ」と名づけました。

その「あはれ」は、わが心ながら、「みづからの心にもしたがわぬわざ」であり、「奇異(くすしくあやし)き神の御所為(みしわざ)」、すなわち人智を超えた神の世界の現われ、としか言いようのない何ものかなのです。

思うに、人が生きるということは、この「もののあはれ」の海の中に生まれ、その海の中でもまれ、そして消えていくことではないかと、最近になってつくづく思います。

言うまでもなく、そもそも自分が今、ここに存在しているということ自体、あらゆる理屈を絶した「奇異(くすしくあやし)き」ことなのです。

そう考えると、こうして無事に新たな年を迎えられたことが、決して当たり前のことではない、「在り難い」ことに思えてくるから不思議です。

令和二年。新しき年が皆さまにとって、より良き年でありますよう、お祈りいたします。

今回は、大伴家持(おおとものやかもち)の少しユーモラスな歌をとり上げたいと思います。家持の価値観や人間性が感じられる興味深い歌です。

時は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(西暦749年)五月十五日、家持32歳のときの歌です。

当時、家持は越中国(えっちゅうのくに = 富山県から能登半島を含む北国一帯の地域)に国司(くにのつかさ)として赴任していましたが、都から連れてきた史生(ししょう=書記官)の一人に、尾張少咋(おわりのおくい)という男がいました。

この男、単身赴任の淋しさに耐えかねたのか、現地の遊女 左夫流子(さぶるこ)という女性にすっかり夢中になり、入れ揚げた挙句、都に残してきた妻をさしおいて、彼女を現地妻のように扱っていたようです。

それのみか、少咋(おくい)は、毎朝、左夫流子(さぶるこ)の家から役所に出勤していたようで、その姿を里人たちに見られ、物笑いの種となっていました。

その様子が、家持の歌に次のように詠われています。

里人(さとびと)の 見る目恥(は)づかし 左夫流児(さぶるこ)に 惑(さど)はす君が 宮出(みやで)後風(しりぶり) (巻18-4108)
 
【大意】まったく、この私まで恥ずかしいよ。左夫流児(さぶるこ)に血迷って、君がいそいそと出勤していく後姿を里人たちが笑っているのを見ると。 

【語釈】○惑はす君 :左夫流児(さぶるこ)に血道をあげる尾張小咋のこと。○宮出(みやで):国府への出仕 ○後風(しりぶり):後ろ姿

 

 
心配した家持は、部下の尾張少咋(おわりのおくい)に、まず当時の法律である「七出(しちしゅつ)」と「三不去(さんふきょ)」を引き合いに出し、正当な理由がなければ妻を離縁できないことを教え諭します。

「七出(しちしゅつ)」とは、妻を離婚できる条件を定めたもので、(1) 五十歳になっても男子が生まれない、(2)姦淫、(3)舅姑(しゆうとしゆうとめ)につかえない、(4) 悪言して他人に害をあたえる、(5)盗窃、(6)嫉妬、(7)悪い病気 の七つのうち、妻が一つでも犯せば離婚できました。反対に、これらに該当しない場合は離婚できません。該当しないのに離婚すれば、夫(おっと)は一年半の徒刑(とけい=懲役)に処せられました。

次に「三不去(さんふきょ)」ですが、次の三つのうち、妻が一つでも満たせば、「七出(しちしゅつ)の事由があっても離婚できません。

(1)妻が舅姑(しゆうとしゆうとめ)の喪(3年間)に服した場合 (2)貧賤(ひんせん)のときに妻を娶(めと)り現在富貴(ふうき)となっている場合 (3)妻の実家がすでにない場合

さらに重婚は、現地妻でも禁止で、男の重婚は徒刑(とけい=懲役)1年、女の重婚は杖刑(じょうけい=木製の杖をもって背中または臀部を打つ)百回の刑でした。

また歌の題詞には、次のような言葉が残されており、この問題に関する家持の考え方がうかがわれます。わかりやすく現代語訳で示します。

「謹んで考えるに、以上の数か条は、世に法を敷く基盤であり、人を徳へ導く源である。したがって義夫の道とは、人情としては夫婦は平等とする点にあり、ひとつの家で財産を共有するのが当然である。どうして古い妻を忘れ新しい女を愛する気持ちなどあってよかろうか。そこで、数行の歌を作り、古い妻を捨てる迷いを後悔させようとするものである。」

注:上記の現代語訳は、『越中万葉百科』高岡市万葉歴史館 編 笠間書院 より引用。


家持はこのように語った後、今度は長歌を詠んで、少咋(おくい)の心情に直接語りかけます。

 


大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神代(かみよ)より 云(い)ひ継(つ)ぎけらく 父母(ちちはは)を 見れば尊(とうと)く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし 現世(うつせみ)の 世の理(ことわり)と かくさまに 云ひけるものを 世の人の 立つる言立(ことだ)て ちさの花 咲ける盛(さか)りに はしきよし その妻(つま)の子と 朝夕(あさよひ)に 笑(え)みみ笑(え)まずも うち嘆(なげ)き 語りけまくは 永久(とこしえ)に かくしもあらめや 天地(あめつち)の 神言(かむこと)寄せて 春花(はるはな)の 盛(さか)りもあらむと 待(ま)たしけむ 時の盛りそ 離れ居(い)て 嘆かす妹(いも)が 何時(いつ)しかも 使(つかひ)の来むと 待たすらむ 心(こころ)寂(さぶ)しく 南風(みなみ)吹き 雪消(ゆきげ)溢(はふ)りて 射水川(いみづかは) 流る水沫(みなは)の 寄る辺(へ)なみ 左夫流(さぶる)その児(こ)に 紐(ひも)の緒(お)の いつがり合(あ)ひて にほ鳥(どり)の ふたり並び居(い) 奈呉(なご)の海の 奥を深めて 惑(さど)はせる 君が心の 術(すべ)も術なさ (巻18-4106)

【大意】
大汝命 (おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の神代(かみよ)から言い伝えられたことに、「父母を見れば貴く、妻子を見ればせつなくいとしい。(うつせみの)世間の道理だ、これが」と、このように言ってきたのに、これが世の人の立てる誓いの言葉であるのに。ちさの花の咲いている盛(さか)りの時に、いとしいその妻である人と、朝夕に時には笑顔、時には真顔で、ため息まじりに語りあったことは、「いつまでもこうしてばかりいられようか。天地の神々がうまく取り持ってくださって、春花のような盛りの時も来るだろう」と、待(ま)っておられた盛りの時なのだ、今は。離れていて嘆いておられるあの方が、いつになったら使いが来るのかとお待ちになっているその心は淋しいことだろうに、南風が吹いて雪解け水が溢れ、射水河(いみずがわ)の流れに浮かぶ水泡(みなわ)のように、拠(よ)り所もなくて、左夫流(さぶる)という名の女に、(ひものをの)くっつき合って、(にほどりの)ふたり並んで、(なごのうみの)心の奥底までも迷っている君の心の、なんともどうしょうもないことよ。

注:上記の現代語訳は、『越中万葉百科』高岡市万葉歴史館 編 笠間書院 より引用。

 

【語釈】○言立(ことだ)て :誓いの言葉。○はしきよし:いとおしい。なつかしい。○神言(かむこと)寄せて:神が言葉によって助力して。○溢(はふ)りて :あふれて。○寄る辺(へ)なみ:身を寄せるところもなく。より所なく。○いつがり合(あ)ひて:つながりあって。からまりあって。


あおによし 奈良にある妹(いも)が 高々(たかたか)に 待つらむ心 然(しか)にはあらじか
  (巻18-4107)

【大意】奈良にいる奥さんが、爪先(つまさき)だって、今か今かと待っているだろうに。妻の心というのは、そういうものではないのか。そのいじらしい心を哀れと思わないのか、君は。

 


いかがでしょうか。家持は、都で待つ少咋(おくい)の妻の心に寄り添い、あたかも彼女になり代わって、相手の心に切々と訴えます。

それにしても、当時、家持は大国である越中国の国守の地位にありました。その国守みずからが、部下である一書記官の身の上話(みのうえばなし)に、これだけ親身になって、長文の歌まで作って関わってくれるでしょうか。普通ではなかなか考えられることではないと思います。

これは家持の生来の性格、すなわち感受性が高く、とても繊細で、常に相手の心に深く寄っていくという姿勢・生き方が関係しているように思います。

たぶん家持には、都で待つ少咋(おくい)の妻の心が痛いほどわかり、情景が見えるほど、それが胸に迫ってきたのでしょう。国守という立場を超えて、本当に居ても立っても居られない気持ちで、この問題に深入りしたような気がします。

上の長歌を読めば、少咋(おくい)は、貧しい暮らしから妻と助け合って、家持の下で、史生(ししょう=書記官)という地位にまで出世していたようです。

ならば、やっと「春花の盛り」の時を迎えた今こそ、今まで支えてくれた妻とともに日々の生活を楽しむべきではないのか。それなのに、射水河(いみずがわ)の流れに浮かぶ水泡(みなわ)のように浮かれて、左夫流(さぶる)なんて娘に、紐(ひも)の緒(お)の縺(もつ)れるように、にほ鳥のように二人仲良くくっつきあって、奈呉(なご)の海の底までのめり込んで血迷っている君の心は、もうどうしようもないほど愚かだ。家持の嘆きはもっともです。

家持は続けて詠います。

紅(くれない)は うつろふものぞ 橡(つるはみ)の なれにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも (巻18-4109) 

【大意】紅(くれない)は見た目はいくら美しくとも、すぐ色あせるものだ。くぬぎで染めた着古しの衣(ころも)に、優るところなどありはしないのに。

【語釈】○紅(くれない) :左夫流子のこと。○橡(つるはみ) :団栗(どんぐり)の皮で染めた薄墨色のことで、少咋(おくい)の妻を表す。

これを聞いた少咋(おくい)は、心動かされずにはいられなかったのでしょう。家持の説得を受け入れて、都から妻を呼び寄せるため、使いを出すことにしたようです。

 


ところが、家持の説得の二日後に、急転直下、事態は予想もしない方向に進みます。

題詞によれば、「先の妻、夫の君の喚(め)す使(つかい)を待たず、自ら来たる時よめる歌一首」とあり、越中にいる少咋(おくい)が、都の妻を呼び迎えるための使いを出したのに、その使いも待たずに、何と妻自(みずか)ら、都から早馬に乗って、左夫流子(さぶるこ)が本妻気取りで振るまっている館(やかた)へ、里中鳴り響くばかりに乗りこんできたのです。

左夫流児(さぶるこ)が 齊(いつ)しき殿(との)に 鈴(すず)懸(か)けぬ 駅馬(はゆま)下れり 里(さと)もとどろに (巻18-4110)

【大意】いやはや、左夫流子(さぶるこ)が本妻気取りでお仕えしていた館(やかた)に、駅鈴(えきれい)もつけない私用の早馬で本妻が乗りこんできたぞ。里はもう野次馬たちで大騒ぎだ。

【語釈】○齊(いつ)しき殿 :左夫流子が本妻のようにお仕えしていた館 ○鈴懸けぬ :公用の使いは鈴をつけた駅馬を使うが、ここは私用なので、鈴のない駅馬を借りてきた。○駅馬(はゆま) :「はやうま(早馬)」の略。早馬のこと。奈良時代、旅行者のために街道の駅に備えてあった馬。公用の場合は駅鈴(えきれい)をつけた。

これまた、修羅場必至の大変な状況になってしまいましたが、驚くのは、当時、奈良の都から北陸の越中(富山)までの片道10日もかかる道のりを、道路事情もよくない中、自(みずか)ら私用の早馬を仕立ててやってくる少咋(おくい)の妻の行動力というか、逞(たくま)しさです。

どうやら彼女は、家持が上記の長歌で描き、かつ想像していたような、都で夫の帰りをいじらしく健気に待っているだけの、か弱い女性ではなかったようです。

 

大仰に誇張を交えながら、ユーモラスに詠われた上記の歌から、苦笑する家持の姿が見えるようです。


結局、家持の心配も、少咋(おくい)の妻の並外れた行動力でどうやら杞憂(きゆう)に終わったようで、一件落着といった感じですね。

いずれにしても、今から1300年前に起こった不倫劇の顛末が、こんなにも目の前に見えるような臨場感をもってリアルかつコミカルに感じられるのは、家持の歌のお陰です。

 


ところで、この一連の歌を読んで、私が強く感じたのは、やはり大伴家持という人の持っている深い感受性と本質的なやさしさ、情け深さです。

これは、以前に『大伴家持の歌-防人の情(こころ)となって』にも書きましたが、家持の詠んだ歌を読んでいて、私が常に驚かせられるのは、彼が相手の人間、とりわけ女性の気持ちにとても敏感で、それに深く共感できるだけでなく、さらには、彼ら彼女らに寄り添い成り代わって、その「あはれ」をすぐれた歌に昇華させることができる、極めてしなやかな感性を持っていることです。


そして、その生来のしなやかな感性と、愛する人との幾多の別れを経て培われた、彼自身の持つ情け深さ、人間的やさしさが合わさったとき、そこに対象への人間的な共感と哀歓がほとばしるような彼独自の歌の世界が生み出されるように感じます。

彼の歌が、時代を超えて、読む人々に与える何ともいえない温かさや人懐っこさは、彼の持つこうした人間的資質が、自然と歌ににじみ出ているところに由来しているのではないでしょうか。

やはり「文は人なり」。文章には、その人の価値観のみならず、美意識、生き方に至るまで、すべてが反映されてしまう。

そのことを、今回の家持の歌を読んで、あらためて強く感じました。

長くなりましたので、この辺で。

万葉集を代表する歌人の一人である大伴家持(おおとものやかもち)が残した歌は473首。これは、万葉集全体の1割を超え、万葉歌人中もっとも多い歌数です。

しかも、万葉集で確認できる家持の27年間の歌歴のうち、越中国(えっちゅうのくに = 富山県から能登半島を含む北国一帯の地域)に国司(くにのつかさ)として赴任していた5年間に詠んだ歌数が223首もあり、家持の全歌数の半数近くを占めています。

なぜ家持は越中(富山)でこのように多くの歌を詠んだのでしょうか。

 


奈良の都(みやこ)で育った家持とって、雪深い北国の僻地(へきち)である越中の気候・風土は、都とすべてが異なり、加えて単身赴任だったため、夜の一人寝の淋(さび)しさは、一際(ひときわ)その身にこたえたようです。

この時期の家持の状況は、以前に『大伴家持の歌-なでしこの花』『大伴家持の歌ー春花の散りの乱(まが)ひに死ぬべき思へば』の記事にも書いています。

さらに、着任の翌月にはたった一人の最愛の弟 書持(ふみもち)を失い、家持自身も大病を患い、死線をさまようなど不運つづきで、一日も早く都に帰りたいという思いが、当時の歌から切実に伝わります。

しかし時が経つにつれて、越中に来た当初の違和感は次第に薄れ、家持は、越中のもつ比類の無い風光に深く深く魅(み)せられていくのです。

家持のいた国司の館(やかた)から見える二上山(ふたがみやま)、射水川(いみずがわ)、奈呉海(なごのうみ)、はるかに聳える立山連峰。北西には渋谿(しぶたに)の崎や布勢(ふせ)の水海(みずうみ)。

どれもが、海や大河のない奈良の都(みやこ)では決して見ることのできない景色であり、その雄大で神さびた自然の造化の妙に家持は驚き、その新鮮な感動をすべて歌に詠んだのです。

中でも、真夏にも頂(いただき)に真っ白な雪をいただく立山連峰(たてやまれんぽう)の神々しさは、筆舌に尽くしがたい存在感を持って、家持を圧倒したようです。

そのとき生まれたのが次の歌です。

 


立山(たちやま)に 降り置ける雪(ゆき)を 常夏(とこなつ)に 見れども飽かず 神(かむ)からならし (巻17-4001)

【大意】立山(たちやま)に降り積もった雪(ゆき)は夏のあいだもずっと消えることなく、いつ見ても決して飽きることはありません。まさに神の山だからなのでしょう。

【語釈】○立山(たちやま):立山連峰のこと。○神(かむ)から:神の性格のせいで、神の品格がすぐれているために、の意。「から(柄)」は、そのものに備わっている本来の性格、本性。また、そのものの由来するところ。「~の故(ゆえ)」などの意。 ○ならし:(断定の助動詞「なり」の連体形「なる」に推量の助動詞「らし」の付いた「なるらし」の音変化) ~であるらしい。~だなあ。

 

この歌については、実際にこの景色を見たことのない私などが書くよりは、以下に紹介するerityさんの素敵な記事を、是非読んでいただきたいと思います。


正直にいうと、私はいままで、家持のこの歌や越中の自然・景色を詠った歌のすばらしさが、感覚として、いま一つわかっていませんでした。いろいろと文献を調べて、頭にはいろいろと知識はありましたが、歌の心というか、肝心のところをつかみかねていました。

そんな折、実際に現地に行って書かれたerityさんの上記の文章とお撮りになった写真を拝見して、思わず息を呑むというか、本当に驚きました。

なぜなら、そこには家持が富山の地に立って、実際にその目で見たであろう光景が、寸分違わずそのまま再現されていたからです。「立山に 降りおける雪を 常なつに」と、この歌を詠んだ大伴家持の晴れやかな喜びが、あの写真や文章を通して、痛いほど伝わってきたのです。

深い感動の中で、家持が詠んだこの歌の真意が、このとき心の底から初めてわかった気がいたしました。

それにしても、よくもあのような写真が撮れたものだと思います。

天空に聳える立山連峰。雨晴海岸(あまはらしかいがん)に広がる清らかな磯。

まるで池のように、波立たない海。そして、どこまでも青く澄みわたる空。

まさに、erityさんの書かれている通りだと思います。

造化の妙というか、万物を生成する根元的な力が形づくる神々しい光景に言葉を失います。

家持がこの瞬間に、神の本性を見たと感じたことが、ようやく理解できました。

雨晴海岸と立山連峰がこのような姿を現すのは、本当に稀なことではないでしょうか。

それに出会えただけでなく、すばらしい写真と文章でそれを再現して下さったerityさんに、心から感謝したいと思います。

erityさんは、「その場を立ち去るのが惜しまれる。ずっとずっと眺めていたい。今日も明日も、この景色を見たい。」と書かれていますが、まさに家持の歌の世界を直(じか)に体験されたといってもよいのではないでしょうか。

 


馬並めて(なめて) いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)の 清き礒廻(いそみ)に 寄する波見(なみみ)に (巻17-3954)

【大意】馬を並べて、さあ見に行こうではないか、雨晴海岸の清らかな磯に寄せる波を見に。

【語釈】渋谿(しぶたに):富山県高岡市北部の雨晴(あまはらし)海岸と呼ばれるあたりのこと。

以前の私には、いま一つつかみ切れていなかったこの歌も、erityさんのおかげで今では痛いほどわかります。家持の誘いに応えて、近いうちに、私も是非この地に立ってみたいと思います。

ところで家持は、この比べるもののない景色を、最愛の弟 書持(ふみもち)に是非見せたかったのですが、書持の突然の夭折(ようせつ)により、永久に果たすことができませんでした。家持の無念が胸に迫ります。

かからむと かねて知りせば 越(こし)の海の 荒礒(ありそ)の波も 見せましものを (巻17-3959)

【大意】こうなると、かねてから知っていたなら、越の海の荒磯(ありそ)の波も見せてやったのに。

erityさんが、お嫁に行くことになった妹さんと二人で富山(越中)に行き、大伴家持の足跡をたどることで出会った越中の風光の美しさ。

それははからずも、同時に家持の心をたどる旅となったのではないでしょうか。

erityさんの最後の言葉が、心に残ります。

「家持が成し遂げられなかったことを、代わりにして来てあげられたのかな… (中略) 綺麗だったね。」

erityさん、素敵な記事、本当にありがとうございました。

大伴家持の歌のすばらしさが、一人でも多くの人に伝わりますように。

(おわり)

仏教の説く四苦八苦の中に、愛別離苦(あいべつりく)という言葉があります。

これは、読んで字のごとく、人が生きていく上で決して避けることのできない「愛する者と別離する苦しみ」を表わした言葉です。

考えてみれば、人生の中で経験するさまざまな苦しみの中で、愛する者との別離は、私たちにひときわ大きな悲しみをもたらします。それまで住んでいた世界の見え方が、それを契機に一変してしまうこともめずらしくありません。

人の心を根底から大きく揺さぶるという意味で、これに勝る悲しみは、他にないのかもしれません。

そこに共通しているのは、出会うモノやコトが一様に光を失い、暗い闇の中に沈みこんでいくような様相を帯びてくることです。

今回紹介する大伴家持(おおとものやかもち)の歌は、そのような情景を詠ったものです。

 


題詞に、「天平(てんぴょう)十六年甲申(きのえさる)の春二月、安積皇子(あさかのみこ)の薨(こう)ぜし時に、内舎人(うちとねり)大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)の作る歌六首」とあるので、西暦で言うと744年2月、家持27歳のときです。

当時家持は、聖武(しょうむ)天皇の唯一の皇子である安積皇子(あさかのみこ)に、その警護に当たる内舎人(うちとねり)として仕えていました。そして単に内舎人というだけでなく、藤原八束(ふじわらのやつか)邸の宴(うたげ)で同席するなど、家持と皇子はとても親しい関係にあり、青年ながら高雅な人柄を備えた安積皇子に、家持は人間的に魅(ひ)かれるものを感じていたようです。

新興の藤原氏が台頭する中、安積皇子はまた、家持たち旧貴族にとって、将来の皇太子有力候補として希望の星でもありました。家持自身、名門貴族大伴一族と自(みずか)らの将来を、皇子にすべて託すつもりでいたようです。

 

そして何より、武門である大伴氏の棟梁(とうりょう)であった家持は、彼の詠んだ「海行(うみゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行(やまゆ)かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ」という歌のとおり、主君である皇子のためには自らの命さえ捧げる覚悟だったと思われます。

「この方に一生お仕えして、どこまでもお守りしたい。」

家持はそのように、心の中で決意していたのではないでしょうか。


ところが、天平十六年(744)正月十一日、安積皇子は聖武天皇の難波(なにわ)行幸(みゆき)の際に足の病(脚気)を発し、恭仁京(くにきょう)に帰って2日後に急死してしまいます。享年17歳の若さでした。

このとき書かれた家持のいくつかの歌を読むと、そこにはあたかも肉親を失ったかのような哀惜(あいせき)の念がほとばしり、家持の受けた衝撃と悲しみの大きさがわかります。今回は、その代表的なものを一つとりあげてみます。

あしひきの 山さへ光り咲く花の 散りぬるごとき わが大君(おおきみ)かも (万葉集巻3-477)

【大意】山全体を光輝かせるまでに咲いていた花が一瞬で散ってしまったように、ああ、はかなくも逝(い)ってしまわれたわが大君(おおきみ)さまよ。

「あしひきの」は山にかかる枕詞です。家持にとって、安積皇子の突然の死は、全山を光り輝かせ一面に咲き誇っていた花が一瞬で散ってしまったかのように、世の中が光明から暗黒に一変してしまう出来事だったのです。

それほど、家持にとって安積皇子は、単なる主君を超えて、心から愛すべき、本当にいとおしい存在だったのです。

まさに皇子の死は、家持の心からすべての光を、瞬時に奪いとってしまったのです。

そしてそれは、同時に、家持と大伴一族の行く末を明るく照らしていた光をも消し去ってしまったのでした。

それにしても、光あふれる世界が一時に暗転する情景の変化を、なんと鮮明に読む者の脳裏に深く刻みこんでくる歌でしょうか。

 

「山さへ光り咲く花の」という上の句の光に満ちた美の極致から、それが突如「散りぬるごとき」という下の句の漆黒(しっこく)の闇へ、雪崩(なだれ)をうって瞬時に移り変わる転調の激しさ。本当に言葉を失います。


家持の目に映るモノやコトがすべて忽然と光を失い、暗い闇の底に沈みこんでいく。その瞬間の心象世界の変転を、映像的にこれほど鮮烈に描写した歌が他にあるでしょうか。絶唱といっても過言ではありません。


外の世界にある光と闇。そして、私たちの心にある光と闇。

一方は、物理的なものであり、一方は心理的なものですが、つきつめていくと、それらはどうやら深いところでつながっているような気がします。

人が希望を持つとき、その目に映じる世界は光を増し、逆に絶望するとき、その世界は光を失い、闇が支配する。

「存在とは光である」という言葉をどこかで読んだ記憶があります。

私たちが最愛の存在を失ったとき、その心に映る心象風景は、今でもまさに、家持の詠んだこの歌の描く光景と寸分違わないものではないでしょうか。

まさに、今から1300年前に大伴家持の心に確かに実在したこの心象風景は、現代を生きる私たちが、今も人生の真っ只中で愛別離苦(あいべつりく)と出会うごとに、変わることなく再生され続けている。

その意味で、この歌のもつ時空を超えた普遍性と生命(いのち)は、未来永劫失われることはないのではないか。

この歌を読んで、そのような感慨を覚えました。

 


ところで、家持は、この悲しみと衝撃を乗りこえるため、どうしたのでしょうか。

それは、歌を詠むこと。彼には、それ以外に道はありませんでした。

家持は言います。

春日遅々(ちち)として鶬鶊(ひばり)正(まさ)に啼(な)く。悽惆(せいちゅう)の意、歌にあらずは撥(はら)ひ難(がた)きのみ。よりて此の歌を作り、もちて締緒(むすぼれたるこころ)を展(の)ぶ。 (万葉集巻第十九 4292の左注)

【大意】春の日はうらうらとして長く、ひばりが今鳴いている。痛み悲しむ心は歌でなくては払(はら)い難い。そこでこの歌を詠んで、それによって鬱屈(うっくつ)した心を晴らしたい。

すなわち、この悲しみは、歌以外のどのような方法でも取り除くことができないもので、歌の持つ言霊(ことだま)の力によってのみ、晴らすことができるものだというのです。

苦しみや悲しみ、日々の哀感を歌として詠い、昇華させる。

これが家持にとって、心の中に光をとり戻すただ一つの方法だったのです。

私たちも、大切なものを失ったとき、その真情をありのままに歌に詠むことで、その心と静かに向かいあい、見つめなおす。

それにより、自(みずか)らの苦しい胸のうちから、不思議と自分自身が救われた気がする。

この方法はとても小さな灯火(ともしび)のように見えますが、必ずや私たちの行く手(ゆくて)を照らす確かな光となってくれるのではないでしょうか。

長くなりましたので、この辺で。