今回は、江戸時代の国学者 本居宣長(もとおりのりなが)の思想について、インド・ヒンドゥー教の思想と関連させながら論じてみたいと思います。
前回まで5回にわたり、インドのヒンドゥー教の神について書いてきましたが、その言わんとするところは、この世に存在するすべては、宇宙の最高原理である“ブラフマン(梵)”すなわち神様そのものということでした。
つまり、私の身体はもちろん、周りにいる人やさまざまな動物、花や草木、山や川、そして海や空、太陽、月、星々に至るまで、天地万物はすべて大いなる生命(いのち)である神様の一部なのです。言いかえれば、この世には、神様のいないところなど、どこにもないということになります。
こうした考え方は、わが国固有の信仰である神道のそれに、とても似ているといえるかもしれません。もちろん厳密にいえば、「神」というもののあり方そのものが、ヒンドゥー教と神道では異なるところがあるのですが、これについては、また別の機会に論じてみたいと思います。
【注】 本居宣長の説くわが国の「神(カミ)」あり方については、こちらを参照。宣長が、「唐(から=中国)の如く、其(その)霊(くしび)なる所を云(いう)とは異(ことなる)也(なり)」(『鈴屋答問録』)と言うように、わが国では、霊妙不可思議な「働き」、神秘的な「理(ことわり)」などを「神(カミ)」というのではなく、この世に存在するあらゆる奇異(くすしくあやし)き「物」と「事」の中で、一際(ひときわ)奇異(くすしきあやし)さの度合いが高く、「可畏(かしこ)きもの」にまで昇華したものを、その「実物」を直(じか)に指して「神(カミ)」というのです。またそれは、善悪や賢愚、貴賎などを超えた存在でもあります。
一般に神道では、人は神様の子であり、神様の分霊(わけみたま)をいただいて生まれてきたといいます。
古事記を見ると、人だけでなく、「産霊(ひすび)」の力によって、天(あめ)地(つち)をはじめとした万物がつぎつぎと生み出されていくさまが、神々の誕生という形(かたち)をとって語られています。
それは、キリスト教やイスラム教などの一神教のように、全知全能の絶対神が万物を創造するといった趣(おもむき)とは異なり、宇宙自体が、神の中に生み落とされ、神と共に成長し、永遠に万物が生まれつつ弥栄(いやさか)していく様相であり、『産巣日(むすび)の神』の御霊という「実物」が、万物という「実物」を次々と生んでいく世界です。すなわち、「神」が「神」を、言いかえれば、「物」が「物」を、「事」が「事」を生むのです。古事記では、これを「成る」という言葉で表現しています。
あたかも、大いなる生命(いのち)が呼吸するたびに、万(よろず)の生命(いのち)が刻々と生まれに生まれていく。その世界生成の営みは、現在に至るまで一瞬たりとも止まることなく続いています。
本居宣長は言います。
此(この)世中(よのなか)の惣体(そうたい)の道理を、よく心得(こころえ)おくべし。其(その)道理とは、此(この)天地も諸神も万物も、皆ことごとく其本(そのもと)は、 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)神皇産霊神(かみむすびのかみ)と申(もう)す二神の、産霊(むすび)のみたまと申(もう)す物によりて、成出来(なりいでき)たる物にして、世々(よよ)に人類(じんるい)の生(うま)れ出(いで)、万物万事の成(なり)出るも、みな此(この)御霊(みたま)にあらずといふことなし。(中略) 抑(そもそも)此(この)産霊(むすび)の御霊(みたま)と申すは、奇々妙々(ききみょみょう)なる神の御(み)しわざなれば、いかなる道理によりて然(しか)るぞなどいふことは、さらに人の智慧(ちえ)を以て、測識(はかりしる)べきところにあらず。(『玉くしげ』)
【大意】 まず第一に、この世の中の総体の道理を、よく心得ておかなくてはならない。その道理というのは、この天地も諸神も万物も、皆ことごとくその根本は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)という二柱の神の「産霊(むすび)の御霊(みたま)」(物や事を産み出す神霊)というものによって、生まれ出たものであって、世に人類が生れ出たり、万物万事が現われ出るのも、皆この「御霊(みたま)」によらないということはないのである。(中略) 一体、この「産霊の御霊」というものは、とても不思議な神の御(み)しわざであるから、いかなる道理によってそうなるのかなどということは、人の知恵をもっては、全く推量して識(し)ることのできるものではない。
このように宣長は、『古事記』神代編の記述をもとに、わが国においては、この世に生まれた生命(いのち)だけでなく、神々に至るまで、存在するあらゆる物や事(万物万事)が、「産霊(むすび)の御霊(みたま)」(物や事を産み出す神霊)によって生み出されたものであることを明らかにします。
しかし、「産霊(むすび)の御霊(みたま)」というものの正体は不可思議そのものであり、万物万事がどうして、またどのような仕組みでこの世に生み出されたのかは、人間の知恵では、到底はかり知ることはできないものなのです。
宣長は言います。「すべて物の理(ことわり)は、つぎつぎにその根源を推し量り、極めつくしていったとしても、どのような理由とも、どのような道理とも知ることができるようなものではない。終いには皆、不可思議なところに落ち込んでいってしまうのだ。(趣意)」(『玉勝間』)
存在の根拠はどこまでいっても謎であり、人間理性では、永遠に極めつくされることはないという事実。にもかかわらず、物や事が眼前に存在しているという不思議。宣長はこれを「奇異(くすしきあやし)さ」という言葉で表現します。
宣長は言います。
すべて神代(かみよ)の事どもも、今は世にさることのなければこそ、あやしとは思ふなれ、今もあらましかば、あやしとはおもはましや。今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世の中にあらゆる事、なに(何)物かはあやしからざる。いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ。 (『玉勝間』)
【大意】 総じて神代の事は、今の世の中にそのようなことがないから不思議だと思うけれども、もし今もあったとしたら、不思議だと思うだろうか。今世の中にあることも、今あるからこそ、不思議とは思わないのだが、よくよく思慮を巡らせば、世の中にあるあらゆることの中で、何ものが不思議でないだろうか。せんじつめれば、不思議でないものは何一つとして存在しないのだ。
まさに、存在するすべての「物」や「事」は、おのおのその根底に測り知れない「奇異(くすしきあやし)さ」を秘めて、今、私たちの目の前に立ち現れているのです。
ここで、上記の宣長の言葉を、宣長自身の「神(カミ)」の定義である「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云(いう)なり。」(古事記伝)」という言葉、また「又(また)人ならぬ物には、雷は常にも鳴る神、神鳴りなど云(い)へば、さらにもいはず、龍樹霊狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり。」「又(また)海山などを神と云(いえ)ることも多し。そは其(そ)の御霊の神を云(いう)に非(あら)ずて、直に其(そ)の海をも山をもさして云(いえ)り。此(こ)れもいとかしこき物なるがゆゑ(え)なり。」という言葉とあわせて考えてみましょう。
「可畏(かしこ)き物」とは「畏怖・畏敬すべきもの」といった意味ですが、宣長は「すぐれてあやしき物」とも言っており、要は「奇異(くすしきあやし)さ」を持ち、「可畏(かしこ)き」ものは、すべて「神(カミ)」なのです。
ということは、前述のように、この世に存在するすべての「物」や「事」は、おのおのその根底に測り知れない「奇異(くすしきあやし)さ」を秘めているわけですから、総じて言えば、この世に存在する万物万事、皆ことごとく神(カミ)そのもの、神(カミ)の現われということになります。
そもそも万物万事は、産霊(むすび)の神が生み出した時点で、神の分霊(わけみたま)であり、すべて親である神様の御霊(みたま)を生き写しで受け継いでいるのですから、この世を神(カミ)の現われと捉えることは、とても自然なことといえるでしょう。神道でいう「八百万(やおよろず=無数の意)の神」という言葉は、まさにこのことを示しています。
さらに宣長は、この世に存在するあらゆる「物」が、「物」そのものとして、おのおの「性質情状(あるかたち)」を自(おの)ずから備えているのは、もはや「神の御所為(みしわざ)」という外ないと言いいます。
つまり、「奇異(くすしくあやし)き」ところから、「神の御所為(みしわざ)」を導き出してくるのです。
そして、「神の御所為(みしわざ)」によって生み出された、「物」そのものの持つ存在感と「性質情状(あるかたち)」は、形容しようにも言葉にならず、ただ深く心に感じるあまり、思わず「ああー」という「嘆息の辞」の外に、何の表現のしようがありません。
この「嘆息の辞」を、宣長は「あはれ」という言葉の原義としています。ここであの有名な“もののあはれ”が引き出されてくるのです。
【注】 “もののあはれ”とは、対象である物(モノ)・事(コト)のもつ「心」、すなわち「性質情状(あるかたち)」に、自己の心が染められ動かされ、「あはれ!(=ああー!)」という「嘆息の辞」を伴って、その瞬間の心模様が「情」として結晶化したものです。その “あはれ”は、対象である物(モノ)・事(コト)があらかじめ備えもっているものであると同時に、それに動かされるままに感じている自分自身の心模様でもあります。“もののあはれ”の詳細はこちらを参照。
宣長は、“もののあはれ”について、以下のようにも述べています。
世の中にあらゆる事に、みなそれぞれに物の哀れはあるもの也(なり)。(『紫文要領』)
物の哀(あはれ)という事は、万事にわたりて、何事にも其事(そのこと)其事につきて有物(あるもの)也(なり)。(『紫文要領』)
これらの言葉から明らかなように、“もののあはれ”は、私たちが想像するような、人間の感情の一種ではありません。この世のありとあらゆる物や事に、その固有な存在様式として、すなわち「性質情状(あるかたち)」として、あらかじめ遍在しているものなのです。
そして“もののあはれ”を感じているとき、私たちの心の奥底には、自らの眼前に、物が物として、事が事として、おのおの固有の「性質情状(あるかたち)」をもって厳然と存在しているという、存在の「奇異(くすしあやし)さ」に対する根源的な驚きがあります。
このように宣長にとって、「物」が各々その「性質情状(あるかたち)」をもって眼前に存在しているというただそれだけのことが、「神の御所為(みしわざ)」としかいいようのない、驚愕に値する不可思議でありえないことなのです。
ここで、冒頭に触れたインドのヒンドゥー教の思想と対比して考えてみると、ヒンドゥー教の思想では、この世界に遍在しているのは宇宙の最高原理である“ブラフマン”であり、言いかえると、この世界はブラフマンの現われとして捉えられていましたが、宣長の思想においては、世界に遍在しているのは、“もののあはれ”あり、人間にとって、世界は“もののあはれ”の現われとして捉えられているということになります。
そして、宣長は「とにもかくにも、人はもののあはれを知る、これ肝要なり。」と言い、“もののあはれ”を知る生き方を最重要視します。
つまり、インドのヒンドゥー教思想では、宇宙および自己に遍満する“ブラフマン”を悟ることを人の生きる究極の目的としているのに対し、宣長は、“もののあはれ”を知ることを、人の生きる究極の目的としているのです。
インド・ヒンドゥー教の宗教的かつ形而上学的な色彩を帯びた“ブラフマン”という言葉と、“もののあはれ”という極めて人間の実感・実情に根ざした言葉との間にあるコントラスト。
このように二つを並べてみると、本居宣長という人が“もののあはれ”を説くことで一体何をしようとしたのか。そのことが少しずつ見えてくるような気がします。
それをあえて言うと、宣長は、「神の御所為(みしわざ)」を説き、深く宗教的世界に入っていくように見えながら、実は、あらゆる宗教が生まれてきた淵源であるところの、人に宗教心が生まれる直前の真情にまで遡り、そこをさらに突き抜けることで、宗教の持っているドグマ(教義)を解体しつつ、最終的にそれらすべてを包含する、より根源的で普遍的な生き方を提示しようとしているように見えるのです。そして宣長にとって、まさにそれが「“もののあはれ”を知る」という生き方だったのです。
こうしてみると、宣長が明らかにしようとしたのは、すべての人間が生みの親である神様から授かり、生まれたときから備え持っている「もとのままの心」であり、言いかえれば、宗教や形而上学が発生するはるか以前に“原初の人間”が持っていた「心ばえ」、すなわち「“もののあはれ”を知る心」であったといえるかもしれません。
さらに言えば、私たちが“もののあはれ”に生きるとは、生みの親である神様の心のままに生きるということであり、それはすなわち、今の現(うつつ)に神代(かみよ)を生きるということなのです。そのとき、人は限りある生命(いのち)を超えて、刹那に永遠を現成(げんじょう)させながら生きることができるのではないでしょうか。
「神代即今」 「今即神代」
「神代」は、“もののあはれ”に生きる人の目の前に、今この瞬間にも、刻一刻と出現し続けているのです。
最後に、宣長の以下の言葉を引用して、この稿を終わりたいと思います。ここには、“もののあはれ”に生きる歓び、すなわち宣長の考える、人がこの世に生を享(う)けて感じることのできる最高の歓びが、包み隠さず語られています。
霞(かすみ)と共に春たちかへるあしたより、雪のうちに年の暮れゆくゆふべ迄(まで)、物ごとに何かはあはれならざらん。あたら花鳥の色もね(音)をも、いたづらに見ききすぐして、ひと言の詠(ながめ)もなくむなしくあかしくらさんは、いみじういふかひ(甲斐)なく口おしき事なりかし。おりふしごとにあはれにもおかしくもうち覚えむ事にふれて、よくもあしくも一言つづりいでて、おもふ心をのべたらんは、うき世のおもひ出なに事かはこれにまさらん。(『石上私叔言』)
【大意】 霞(かすみ)と共に春たちかえる朝より、雪のうちに年の暮れゆく夕べまで、物ごとにどうして“あはれ”でないものがあるだろうか。あたら花鳥の色も音(ね)をも、いたずらに見聞き過ごして、ひと言の感慨を歌うこともなく、空しく日々を過ごすのは、大変つまらなく残念なことだ。折節ごとに、“あはれ”にも面白くも感じるような事にふれて、上手であろうが下手であろうが、一言でも詠み出して、思う心をくつろがせることができれば、今生(こんじょう)の思い出として、これ以上のものがあるだろうか。
(おわり)