海彦の本居宣長研究ノート「大和心とは」については、こちら から。

前回 、この世に存在するすべての物(モノ)・事(コト)の「奇異(くすしきあやし)さ」に対する根源的な驚きが、“もののあはれ”を生み出す、ということを書きました。

注: 「もののあはれ」については、こここここちらこちら を参照。

それではどのようなとき、人は“もののあはれ”を強く感じるのでしょうか。

それは、人が「奇異(くすしきあやし)さ」を強く感じたとき、分かりやすく言いかえると、「ありえないこと」が起こったときなのです。

たとえば、スポーツの試合などで、大量得点差からの逆転劇、強敵に勝って2大会連続で金メダル獲得、怪我を克服して自己最高記録で優勝したなど、強く心が動かされる場面というのは、普通の常識では起こり得ないこと、すなわち「ありえないこと」が起こったときなのです。その出来事が起こったこと自体、「不思議でしょうがない」という感じでしょうか。今までの常識が、根底から覆された瞬間でもあります。

実は、私たちが日常よく使っている「ありがたい」という言葉も、「有り難い」と書くように、もともと「ありそうにない。ほとんど例がない。めったにない。珍しい。」という意味で、ありえないことが起こったときの驚きを表現した言葉です。

ところで、上記のような場面以外にも、人に“もののあはれ”をことさら強く感じさせるときがあります。

それは、人が恋するときです。

宣長は言います。

「人の情(こころ)の深く関わる事、“色好み”に勝るものはありません。そうであれば、その方面については、人の心は深く感じて、物のあはれを知る事、何よりも勝っています。だから、神代より今に至るまで読まれた歌に恋の歌のみ多く、またすぐれているものも恋の歌に多いのです。これは、物の哀れが極めて深いからです。(中略)

後の時代のことですが、藤原俊成(ふじわら の としなり)が、

恋せずば 人は心もなからまし 物の哀れも これよりぞしる
(大意: 恋をしなければ、人には心もないだろう。“もののあはれ”もここから知るのだ。)

と読んでいますが、この歌によって理解するとよいでしょう。恋せずに、もののあはれの、極めて忍びがたい(=耐え難い)ことの意味は、知ることができないでしょう。」(紫文要領)

このように宣長は、人は恋するとき、“もののあはれ”を強く感じ、それは「極めて忍びがたい(=耐え難い)」ことなのだと言います。

私は、「紫文要領」のこの文章を読んだとき、万葉集にある磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)の歌を思い出しました。

「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山(たかやま)の岩根(いわね)しまきて 死なましものを」(大意:これほどまでに恋しい思いをしているくらいなら、高山の岩を枕にして、死んでしまう方がましです。)

相手を恋しがる思いが、胸が痛むといった段階をはるかに超えて、死ぬ方がましだと思いつめるまでに高まっています。

自分で自分の心がどうにもならないもどかしさ、思わないようにしようとしてもますます思わずにいられない恋い焦がれる耐え難い思いが、「高山の岩根しまきて」、すなわち「山の岩場で行き倒れになって」死んだ方がましだという強烈な言葉で表現されているのでしょうか。

このように、何者かにとりつかれたように、自分の心さえ自由にならず、あたかも自分であって自分でないような状態に陥ってしまう恋のやまい。

これは、恋したことのない心にはなかなか想像のつかない、何んとも不思議な現象といえるかもしれません。

そしてそれは、宣長の言うように「みづからの心にもしたがわぬわざ」であり、常識や理屈では全く説明できないことで、人間の心に潜む「奇異(くすしくあやし)き」心としか言いようのない何ものかなのです。、

宣長は言います。「恋は人間の感情の中で第一に“あはれ”が関係するものなのです。」(安波禮弁・紫文訳解)

恋する“あはれ”は、実に心の底に潜む「奇異(くすしくあやし)き」世界(=神々の世界)の現れであったのです。