海彦の本居宣長研究ノート「大和心とは」については、こちら から。

今回は“もののあはれ”の伝播ついて書きたいと思います。

注: 「もののあはれ」については、こここここちらこちら を参照。

宣長は言います。

「さてその人の情(こころ)の様子をみて、それに誘われるのをよしとします。これが物の哀れを知るということです。人の哀れなる事を見ては哀れと思い、人のよろこぶのを聞いては共によろこぶ、 これすなはち人情にかなうというものです。物の哀れを知るというものです。人情にかなはず物の哀れを知らない人は、人の悲しみを見ても何とも思はず、人の悲しみを聞いても何とも思はないものです。 このような人をよくないとし、その物の哀れを見て知る人をよしとするのです。」(紫文要領)

「また人の深い悲しみに遭って、ひどく悲しむのを見聞きして、「さぞかし悲しいでしょう」と推し量るのは、悲しまねばならない事(こと)を知るからです。これが事(こと)の心を知るということです。その悲しまねばならない心を知って、「さぞかし悲しいでしょう」と、自分の心にも推し量って感じるのが物の哀れなのです。その悲しまねばならない理由を知るときは、「感じまい」と気にかけないようにしても、自然と忍びがたい心があって、いやでも感じざるを得なくなります。これが人情というものです。」(紫文要領)

「人に語ったとしても、自分にも人にも何の利益もなく、心の内に秘めたとしても、何の不都合な事もないでしょうが、これはめずらしいと思い、これは恐ろしいと思い、哀しいと思いおかしいと思い、うれしいと思う事は、心に思うだけでは済ませれないもので、必ず人々に語り聞かせたくなるものです。世にある限りすべての見るもの聞くものについて、心の動いて、これはと思う事はみなそうなのです。詩や歌の生まれてくるのも、人の心のこういうところからなのです。」(紫文要領)

このように、“もののあはれ”は、それを感じている人の心の中だけにとどまらず、他の人にも伝播していきます。つまり、人と人の共感によって交響し、次第に広がっていくものなのです。

宣長は、そこに詩や歌の生まれてくる源泉もあるといいます。

すなわち、この世に存在するすべての物(モノ)・事(コト)の「奇異(くすしきあやし)さ」に対する根源的な驚きが、“もののあはれ”を生み出し、それが形を求めるとき、それは自(おの)ずから言葉に文(あや)をなし、詩や歌として生まれてくるのです。

その生みだされた詩や歌には、作者の“もののあはれ”がこめられており、それを読んだ人の心を動かし、新たな“もののあはれ”を生みます。作者に会ったことがなくとも、その詩や歌を読んだだけで、その「あはれ」はしっかりと伝わるのです。

そして作品が残る限り、それは時代さえも越えていきます。

宣長は言います。

「久しきよよ(世々)をへだてても、語りつぎかきもつたへて見る時は、まぢかくそのおりの有様(ありさま)を見きくが如(ごと)く、その人にあふここち(心地)して、すずろに泪(なみだ)のおつる」(石上私淑言)

訳:「久しく時代を隔てても、語り継ぎ書き伝えてそれを見る時は、間近にそのときのありさまを見て聞いているがごとく、その人に逢う心地がして、思わず涙が落ちる」(石上私淑言)

“もののあはれ”を知ることは、その人の魂(たましい)に出会うことでもあるのです。

だからこそ宣長は、古事記を読むことで、神代(かみよ)の神々の「あはれ」を知り、その声を間近に聞くことができたのです。

まさに、“もののあはれ”を知ることは、時空を越えて、あらゆる「心」ある存在と出会うことを可能とするのです。