あるひとつのこと:
藤井武:『イエスの生涯とその人格』より
ある美しい日の夕方、2人の人がエルサレムから数十キロの村里に向かって、語り合いながら歩いて行った。後ろからもう1人の旅人がこれに追いつき、話の仲間入りをした。そして、いつしかこの人が話の中心人物になっていた。彼の語ることは、不思議な輝きに満ちたものであった。
2人は熱心に耳を傾けた。やがて目指す村里にたどり着いた後、この人の姿は突然に消え失せた。そのとき、2人はハッと思い当たることがあった。そうして互いに顔を見合わせて言った、「そう言えば、道々私たちに話をされたり、聖書を解き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。(ルカ24の13~32)
ちょうど、上の2人がしたような経験を、私もまたしばしば持つ。私もまた多くは夕方、野道を歩きながら、しばしば「ある者」と道づれになり、そうしてその者の口から輝かしいことを聞いては、私の心が内に燃えるのである。
ことに最近の7年の間(*妻を亡くしてからの7年間のこと)、私はこのようにして色々のことを学んだ。それはどれも、私にとっては目いまだ見ず、耳いまだ聞いたこともないことであった。いや、耳ではあるいはすでに何度も聞いていたかもしれない。しかし少なくとも、心においては未だかって思わなかったことばかりである。つまり、心が鈍かったために、「聞いても聞いても悟らず、見ても見ても分からなかった」のである。
その頑(かたく)なな心が、あることによって砕かれた。そうしてそれ以後、私は日毎に新たに驚異すべきものを見聞きし続けた。
・・・・・あるひとつの条件が満たされない限り、秘密は解けない。これを何度聞いても悟ることはなく、これを見ても見ても分かることはない。長らく、私自身がそうであった。ならばその隠された真理が、どうして遂に私に顕(あら)われたのか。ひとつの条件とは何か。
たびたび言った通り、「ある者」が私に来たのである。そうして、これを私に顕(あら)わしたのである。
その「ある者」とは?・・・・真理の霊である。真理の霊によるのでなければ、このたぐいの真理は啓(ひら)かれない。