原点への回帰(再々掲) | 太陽の船に乗る

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生の探求への原点回帰

 

高橋三郎著『キリスト信仰の本質』から;

 

*この書は、私にとって「回心体験」につながる人生のターニングポイントになったものである。わたしは若き日にこの講義を直接聞いたが、この講義の帰り道で、回心体験が起こったのであった。この体験が本当に霊的体験なのか、主観的な体験なのかを確認するため、この体験の中で理解したことを1つの論文にしたため、ある2人の先生にぶつけたのであった。この体験がなければ、わたしはきっと今頃、別の道を歩いていたに違いない。

 

 

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 パウロが回心体験によってまざまざと知ったことは、自分の生活の根源的倒錯であった。しかもこの倒錯は、自分では律法に従って正しく神に仕えていると思い込んでいる行動そのものが、じつはその正反対の、神に対する反逆そのもであったという、まさに絶対的倒錯として、彼の眼前に突きつけられたのである。

 

 

 パウロは、人間の全存在が罪そのものであるという隠された事情が、律法を手掛かりとして俄然外に立ち現れるという、罪と律法との相関関係を、己が身に体験したのである。律法は人間に行動の目標を与える。そして、人はこの行動に向かって主体的活動を開始するとき、まさにこれを手掛かりとして、その内にひそむ罪(叛逆)の事実が、その行動を通して客体化される。この罪と律法の相関関係の中に、がんじがらめに閉じ込められている人間が救われる道は、まさに「罪の支配からの解放」=「律法の支配からの解放」以外にはあり得ない。

 


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☆ 旧約聖書の学習からスタートしていない現代のわれわれにとって、律法という概念は実感が伴わないかもしれない。その場合、律法とは「信念、または価値観を形成しようとする心の働き」、すなわち「その思考」と解すれば、分かりやすいかもしれない。

 

 

 表現は若干古くなったかもしれないが、上で述べられていることがキリスト信仰の核心である(あえてキリスト教とは言わない)。この回心体験によって明らかになったことを前にして、プロテスタントもカトリックも無教会も、クエーカーも、果ては仏教でさえ、どうでもいいことではなかろうか。それが私の立場である。

 

 

 宗教で言う「律法」とは、一般の用語では「信念を作りあげる思考」である。人は「信念を作り上げて、その思考を根拠に生きようとする」ことから解放されることは可能であろうか。それこそ現代の課題である。

 今、盛んに問題視されるコンプライアンスの問題も、精神が崩壊した現代社会が、「生きる基準(*古代で言う律法)」をめぐる各自の思考と思考との葛藤に他ならないのである。そういう意味では、経済力や科学技術の格段な相違があるとは言え、人間の精神的な状態は2,000年前のパウロの時代とはいささかも変わっていないと言えるのではなかろうか。

 

 

 
 

 国家間の対立も、国内の対立も、個人と個人の対立と葛藤など、どれをとっても「信念に基づく思考」をめぐる根源的問題である。人は「信念を形成しようとする思考」を根拠として生きている。そのことに何ら疑問を持たない。自分の持つ「信念」と、それに伴って生まれる「感覚」こそ、正しい、間違っていないと思い込んでいる。ウクライナとロシアの戦争も、ハマスとイスラエルの戦争も、フェイク情報が盛んに飛び交っているように思えるが、情報の発信者たちはきっとそれがフェイクだとは思っていないに違いない。

 

 世界は「生の探求(*古代の迷宮神話の形成)」を軽視してきたために、人間の精神性を喪失してしまったのである。「これからどう手をつけていったらいいかわからない」、それが今の世界の本当の立ち位置ではなかろうか。